子供の成長を見ていてふと思った事を今日は書いていこうと思います。
子供は幼稚園になると、それまで個人と個人、家族の中だけだった社会が、他のお友達という他人という概念がより強く入ってきて、お父さんお母さん以外の自分以外の存在と向き合う事になります。
そこで、お互いに距離感を学んだり、周りに合わせる事や、両親以外の大人である先生の言うこと聞くことなどを学びます。
また、最近の幼稚園、保育園は素晴らしいなと思うのですが、結構クリエイティブな創作活動や、文化的な教育というのがなされていて、すごく子供にとっては刺激的な時間を過ごせる場所なのだなと感心しました。
幼稚園、保育園である程度の集団に慣れたら、今度は小学校で、読み書きと、算術、社会や理科、道徳などある程度の教育というのがなされます。
ここでは、より親元から独立した世界で、子供達がそれぞれの人生として歩む準備段階をしていくと思います。
子供は幼稚園、保育園の時に比べて、より自分の時間を持つようになっていき、親との距離が適切に離れていきます。
幼稚園から小学校になることで、一つだけ大きな基準が変わるのですが、皆さんはそれが何か、分かりますか?
ちょっと、30秒程度でいいので、考えてみて下さい。
ヒントは体制が大きく変わることと、幼稚園で教えている内容と小学校で教えている内容の違いです。
さて、30秒くらいは経ちましたでしょうか?
答えは、子供達に何を良しとして教えるかの基準です。
どういうことかと言うと、幼稚園だと、それぞれクリエイティブな活動が多いと先程言いましたが、クリエイティブな活動は、明確な良し悪しという判断基準はありません。
あくまで、個人個人がそれぞれに表現した結果だからですし、それをどう受け取るかも人によって変わってくるからです。
なので、幼稚園では、表現活動を行ったという事で、もうすでに良しとなります。
やってみること、表現してみること、感じること、考えること、そういった事がどちらかというと重要視されていて、上手に描けるとか上手く作れるという部分には、あまりフォーカスさせないようになっていると思います。
勿論、上手な子には褒めますし、上手く作れる子は皆からもすごいねと評価されて言われますが、先生の立場としては、それだけでなく、他の子の良い所を探させたり、上手か否か以外の良さを子供達に探させたりしています。
反面、小学校に上がると、字、算術、知識、それらが優位な教育となり、これらにはそれぞれテストがあり、点数が出されて理解度が数字化されていきます。
これは非常に優れたシステムだと思います。
教育側は画一的に、生徒がどのくらい理解したか否かを、テストの点数によって知ることが出来るからです。
そうなると、小学校では評価の対象が、
「やってみること、表現してみること、感じること、考えること」
から、
「正しく出来ること」
へと完全に移行します。
その結果、子供達は正しさを求め、他人の過ちを見つけて正そうという意識が働きます。
幼稚園では、先生に促されて、他人の良い所を探そうとしていた子たちが、今度はうって変わって他人の悪い所を探そうとするのです。
これは、非常に興味深いのですが、ある意味では仕方のない事で、自分の悪い所に着目して直そうとするよりは、他人の悪い所を目にして指摘する方が簡単だからです。
例えば、誰も監視の目が無く、何の利益も無い状態で、ゲームとテレビと漢字ドリルがあったら、恐らくは率先して漢字ドリルをやる子は圧倒的に少ないでしょう。
人間、誰しも、欲望に対して複雑な方よりも簡単な方へと流れてしまうものだからです。
しかし、なぜこのような、幼稚園では良い所を探していた子供達が、小学生になると悪い所を探すような状況になってしまうのでしょうか?
それは、小学校の教育システム、即ち通知表による相対評価を行う必要がある所にあります。
相対評価をする場合、必ず上下、優劣を決めないといけません。
絶対評価では、最低限これが出来れば良いとか、これが出来ていればより可みたいな基準の上で、全員がそれを超えていれば、変な話クラス全員オール5とか、そういうケースもあります。
しかし、相対評価の場合は、例え、全員がある基準値を超えていたとしても、相対的に評価していかないと行けないので、どこかで優劣を決めて、点数を落としたり、或いは上げたりして、差を付けないといけません。
そうすると、必然的に、先生の生徒への見方は、良さを拾っていく見方から、粗を探す見方へとなってしまいます。
これは、ある意味では仕方のないことだと思います。
なぜならば、先生たちは、そのような教育システムの上で、子供達に対して判断をくださなければならない環境の中にいるからです。
当然、先生たちの意識が、無意識にせよ意識的にせよ、他人の粗を探す方向へ向いていると、子供達もそれに意識していないところで影響されます。
幼稚園では、反対に先生達が、子供達の良い所を探そうとしていたので、子供達もそれにいい意味で影響を受けて、お互いの良さを見つけようとしていましたが、小学校になると先生の意識が真逆になるので、子供達の中でも、良い所を探す事から、粗を探すという、逆転が行われるのです。
これは、幼稚園の先生は通知表を付ける必要が無いのに対して、小学校の先生は評価しなくてはならないので、ある意味では仕方のない事かも知れません。
子供への影響は先生達だけではありません。
親からの影響も大いに関わってきます。
子供が育つにつれて、言葉や論理を身に着けていきます。
そうすると、まあ、段々と口答えして来ますよね。
こっちが叱っても素直に言うことを聞かなくなってくる事がまあ、多々ある訳ですよ。
そんな時、親としては言うことを聞かせる為に、子供の粗を指摘して、言うなればマウントを取って叱るという場合があると思います。
論理的に従わせるために、相手のおかしな点、悪い点を指摘して、親の方が正しいから、認めなさいという感じなやりとりですね。
あなたは間違っているから、間違いを正して、私の言う正しいことをしなさい。
っとまあ、簡単に言うと、こんな感じですよね。
まあ、そうすると、気のあまり強くない子やクレバーな子なんかは言うことを聞く(或いは聞くふりをする)かも知れませんが、気の強い子はきっと言い返してくるでしょう。
その時は親と同じ手法を使って、今度は親の粗を探して、指摘し、自分は正しい、お父さん、お母さんは間違っているから僕、私は言うことを聞かない!と主張して来たりね。
そうなってくると、もう、言い合いのエンドレスレインですよね。
でも、実際の言い合いはフェードアウトしてくれないので、どこかで止める必要がある訳ですが、そこは親が諦めるか、子供が諦めるかですね。
まあ、これって実はこの親は正しいから従いなさい理論は、理屈の上では正しいのですが、感情としては完全にやり方が適切では無いんですよね。
子供はそれが正しいか間違っているか、それくらいは大体において分かっている事が往々にあります。
でも、その間違っていることをしているんですよね。
それって、親や大人に対するメッセージなんですよね。
だから、子供に対してはお前は間違っている!なんて言ったら子供の感情としてはより反発しようってなってしまう訳ですよね。
とは言え、反抗的な子供に対して、言うことを聞かないでわがままを言う子供に対して何でも良いよ良いよと言う訳にも行きませんから、ある程度のところでは、まあ、締め上げる必要はあるとは思いますが、どこか逃げ道であったり、子供が追い詰められるんじゃなくて、少し子供が安心出来る余裕を持って叱ってやる必要が恐らくあるのだと思います。
が、まあ、分かっていても中々それを実践するのはねぇ、、、、、はははは。
ちょっと話がそれたので戻しますと、要は、子供達が成長するにつれ、親の方も子供に対して、幼稚園くらいの頃までは、沢山褒めて上げていたのが、反転して今度は叱る、指摘する、行き過ぎると批判する方が多くなってしまいがちであるという事です。
そうすると、子供はある意味では親の鏡ですから、粗を探すという手法を身につける訳です。
先生と親と両方の影響で他人の悪い所を探して指摘するという癖が付いてしまうと、子供達は誰かが間違いを犯すと、瞬時にそれを指摘しようとします。
そして、それは自分が普段出来ていない事だとしても、自らのことは顧みず、他人の過ちを指摘してしまうのです。
正しいことを言っている人は正しい人、つまり正義なんですね。
そうすると、どうなるかと言うと、過ちを犯した一人の子に対して、大勢の正しいことを言う正義という図式が出来上がります。
これって、何かに似てませんか?
そう、ネット批判とか炎上とかの構造です。
過ちを犯した対象とそれを攻撃するその他大勢。
つまり、意図せず子供達はカバートアグレッション(正しいことを理由に人を攻撃する事)を覚えてしまい、それを友達にしてしまっているのです。
この子供達は、その過ちを指摘することが、その子を攻撃しているのに、自らは何ら罪悪感はありません。
むしろ正しい事をしている、優越感でしか無いはずです。
そして、この子供達が正しいと思い込んでしまうロジックも、全て、教育システム、先生、親とそれぞれの小さなほころびが積み重なって出来てしまっているので、何が原因でそうなったと言えないのが現状です。
本人も、そして、きっとそれが行われている場を見ている先生も、その親としても、カバートアグレッションがやられていて、他の子が誰かの間違いを指摘することはあまり良いことではないという認識が薄いと思います。
子供は良いこと、正しいことをしている筈なのに、実は人を傷つけてしまっているという矛盾ですね。
これは本当に普通に、ごく普通に日常的に学校の至るところ、至る場面で行われていて、あたかも普通な光景のように思えますが、裁判によって人を裁ける権利を持っているのは裁判官や裁判員の人ですよね。
一般の人は人を裁く権利は持っていませんよね。
そう、この友達の過ちを指摘する行為は、私的に裁きを行おうとしているのと同じなんですよね。
本来は学校内での間違った行為は先生へと報告し、先生がそれを認識したら、それ以上にその事をついばんで言う必要は無い訳です。
後は先生がその子に対してどのように対処すればいいかを決める訳ですから。
でも、最近では、先生の威光が非常に小さくなってしまいました。
これは完全にこれまでの親と政府の決めた法律のせいです。
暴力、体罰は一律的に駄目だと、画一的に取り決めてその場しのぎの、世論に言われたからやりました的なおざなりな対応だったと思います。
それによって、力を失った教師側は、子供を従わせる武器を一つ失ってしまいました。
勿論、体罰を肯定しているわけでは無いですが、ある程度の脅威、威嚇というのでしょうか、警察官が拳銃を所持するのと同じ様に、教師にも一定の行使できる力というのは無いと逆に駄目だと思います。
問題は、その力の使われ方、使う人の選定だと思うんです。
例えば、警察官は拳銃は滅多に持ちませんよね?でも、持つことが許されています。
そこには、厳重な管理と徹底した意識管理の元で運営がされているからこそ今の警察組織が拳銃をむやみに発泡すること無く一定の秩序が保たれていると思います。
警察官の拳銃とは違い、教師の力の行使は頻度がもっと多いので、同じような管理体制ではいけないと思いますが、それでも、力の使い方、管理の仕方、運営方法などもっと出来ること考えられることはあったんじゃないかと思っています。
それを一律駄目って事にしたせいで、かえって新たな問題を引き起こしましたよね。
法律だけでなく、親のわがまま、昔は学校の先生は大学を卒業した人がなっていて、そういう人は少なかったもんですから、必然的に学校の先生を親が敬う文化がありましたが、近年では、学歴も収入も先生よりも高い親も増えてきて、学校の先生に対する考え方、対応の仕方も昔とは変わって、顧客とサービスという考えで接する人が大半なのではないでしょうか?
確かにお金を払っているのでしょうが、教育というのは、サービスでは無いと僕は思います。
そして、教育をしてもらうという事は、自分の子供をそこに信頼して預けるという事に他ならないと思うんですよ。
もし、信頼できないのであれば、そこに預けなければ良いわけですしね。
なので、サービスと勘違いして、あれやこれやと(学校に信頼して託すという)義務を果たさず、(自分の子供の)権利だけを主張する人があぶれて来て、いわゆるモンスターペアレンツという問題に発展していったのだとも言えます。
話が大きくそれましたが、とにかく、誰かが誰かを裁く権利が無いように、子供が他の子供の過ちを追求する(注意、指摘と追求は違う)というのも、追求する権利は無いのだという認識が、もっと先生、親を通して子供達へと浸透していったらいいなあと思います。
ちょっと言葉も足らない部分もあり、異論は色々とあると思いますが、今日はそんな所です。
ちょっと長かったですが、最後まで駄文にお付き合いいただき、ありがとうございます。