繊細さに欠ける世界で
繊細さに欠ける世界で
誰もがみな等しく自ら激しくは傷つきたいとは思わないと思う
僕だって痛いのは嫌いだ
だから、これを読んでいる君もきっと、痛いのは嫌だと思う
同じように、僕の周りの人も、君の周りの人も、多くの場合、痛いのは嫌だし、基本的には傷つきたくないはずだ
学生時代は言葉の至らなさで人を傷つけてしまったり、傷ついてしまった事があるだろう
社会に出てからは余裕の無さで人を傷つけてしまったり、傷つけられてしまった事があるだろう
僕らは互いに傷つけ合わずに人間関係を進めるには、言葉の使い方を知ることと余裕を持つことの2つが必須である
なので、若い時には沢山ぶつかっていた人が、壮年になり丸くなったと言われるのは、主に言葉の使い方を学んだのと、経済的、時間的に余裕が出来た事で、自然と人を傷つけず、また自らも傷つかずに済むようになるのだと思う
夫婦や家族の場合はどうだろう
君や君の大事な人を傷つけたり、蔑ろにする人であったりしないだろうか?
もし、そうであったなら、その関係値は中々に難しい所ではあると思う
近しい人との人間関係ほど、面倒なものは無いだろう、だからこそ、人は無闇矢鱈と人と繋がろうとはせず、深く話せる人を選別して吟味するのだ
自分のプライバシーなど無く、誰彼構わず自分の深い悩みごとを打ち明けていたら、変人であると思われるだけでなく、或る種の人達からは搾取されてしまうだろう
搾取されるだけでなく、自分自身も恐らくは他人に依存した生き方になってしまうと思う
昔の僕がそんな感じだった
誰にでも自分の悩み事を打ち明けていたら、気が付いたら人に話をして聞いてもらわなければ、自分で選択をすることが出来なくなってしまっていたのだ
そうなると、結局は、世間体を気にした無難な選択をせざるを得なくなり、自分が本当に選びたい選択肢を選べなくなてってしまった
僕はあるところでその事に気が付いて、人に相談することをしなくなった
もちろん、たまに話しの話題として出したりする事もあるが、その場合は、どちらかというと自分で答えが出ていたり、どっちを言われても構わないような事を話しているようになったと思う
どうでもいい悩み事を人に話せるようになったのだ
と、言うよりも、悩みごとの多くが割とどうでも良くなったのかも知れない
そう、昔ほど深刻に悩んだり、考えたりしなくなったのだと思う
それ故に選択肢を選ぶ重さが取れて、気軽に選べるようになったと僕は考えている
冒頭で繊細さの欠ける世界と言ったが
多くの他人は、基本的には善人である事が多い
だが、時として悪人に出くわす、もしくは善人だった人が悪人に裏返るなんて事がある
また、本人は自覚なく、悪行を行っている事も多々ある
無自覚の悪意とでも言おうか
そして、身近な人間関係でこの無自覚な悪意をばら撒いている人ほど、面倒な事は無い
なぜならば、そういった人に無自覚な悪意を認識させる手立てが難しいからだ
証明のしようがない、本人は認識出来ないが故の無自覚だからだ
また、認知したくない場合も多い
その事実を見たくない、見なかった事にしている、知らないフリをして、無自覚の悪意をばら撒く
無自覚の悪意は、ある意味で市民権を得ている日常行為とも言える
そう、多くの人は、その事に関して悪いことである、或いは、やらない方が良いことであるという自覚が無いのだ
90年代のテレビの影響
愚痴、悪口、泣き言、恣意的な誘導、冗談と称した侮辱(冗談にするかしないかは言われた側が決める事であるにも関わらず、言った方が冗談だよなどと言い放つ)、などなど、無自覚の悪意は殺人や強盗のような、そら恐ろしい悪意とはまた別の、ふわっとした、それでいてベタついて離れない気持ち悪さのある悪意なのだ
僕はこの無自覚の悪意の拡散に90年代のテレビがかなりの影響を及ぼしていると考えている
特に、ダウンタウン、とんねるずを始めとしたお笑い関連のバラエティ番組だ
他人を貶めること、誰か一人ターゲットを決めて、仲間はずれにして晒し者にするなど、お笑いと呼ばれるジャンルが、その頃から、非常に変わっていったと思う
楽しくて笑う、というよりも、可怪しくて嘲笑う、ような笑いの構造が多く取り沙汰されていったと思うのだ
文化的な気質の違い
勿論、そういう笑いが全くあってはダメかというと、多少あっても良いのかも知れないが、あまりにそっち側に偏り過ぎてしまった感が否めないのだ
そして、文化的な側面で言うともう一つ
元来、関東やそれ以北の人、或いは関西よりも以西、以南の地方の人の気質として、祭があったら気軽に参加する文化があるように思う
阿波踊りが四国の阿波から関東にやって来たように、同じアホなら踊らにゃソンソンとばかりに、何かイベント毎が起こった時に、そこに参加して共に楽しむという文化的土台が根付いていたと思うのだ
だが、これは完全に僕の偏見であるが、関西の人は、催し物に対して共に楽しむというよりも、演者と客というような立場で見て、その催し物の良し悪しを判断する評論家気質が根付いているように思うのだ
その一つを象徴しているように思うのが、会話の中でオチのない話に対しての執拗な落胆である
そう、別に会話なんて、中身なんて無くて構わないものであるし、元来、話をするのにその構成が完全である必要もなく、話をする行為そのものに意味がある訳である
であるにも関わらず、オチがない事を責める気質がある
そう、話している人が演者で、聞いてる人が客なのである
そして、客は演者の良し悪しを評論して吟味する
会話を共に楽しむ文化へ
この気質がTVを乗せて全国に発信させられてその影響をばら撒かれたのが90年代であると僕は考えている
これによって、それまでは会話を面白くするのは、会話をしているお互いであったはずが、90年代以降、会話を面白くするのは話す人である荷重が非常に重くなった訳である
そうなると、聞いている人も相槌も打たなけりゃ、合いの手も入れない、それでいて話がつまらないと嘆いている人が誕生する
そう、普通の一般的な人が話をしていて、相槌や合いの手を入れないで、話が盛り上がる訳が無いのである
そして、そういった相槌や合いの手、野次を入れる事で、一緒にその会話を楽しむ事が出来るのに、そういった掛け合いを忘れて、大人しく黙って、まるで測定機のように話者を観測し続けていたら、そりゃ話者の話のテンションも下がるし、そうなれば詰まらなくもなる訳だ
話がつまらないという人は、相手が悪いのではなく、自分の聞き方が悪いのである
王様とミニサウザー
そんな当たり前が、なぜかまかり通らなくなって、いつしか、大衆が独立国家の王様宜しく、自分以外の他人が自分を楽しませる装置であると勘違いして育っていった人が大勢いるのではないか
僕はそんな風に思っている
そして、この勘違いこそが、繊細さに欠けている原因なのだと僕は思う
みんな王様
王様は周りを顧みないし、自らも顧みない
退かぬ、媚びぬ、省みぬ、そんなサウザーが沢山いるのである
ね、無自覚な悪意をばら撒く人ってさ、自分の事、見返さないでしょ?
自分の意見曲げないでしょ?自分絶対じゃない?
希望と感性のバトン
でも、ここ最近を見ていると、段々とTVを見ない人が増えていった傾向か、サウザー系の人よりも、山のフドウ系の優しい善人寄りの人の方が、多くなってきてはいると思うなぁ
特に若い世代の子達は、そうだと思う
子供たちもみんな、敏感だよね
だからこそ、大人の役割としては、彼らの感性を壊す事無く、育んで行ってあげたいと願うばかりです
僕らは皆、昔は誰もが感性の鋭い子供だったんだから
自分が潰されたからとて、他人も同じように潰すのではなく、自分が潰されてしまったからこそ、他人には潰されないで生きて欲しいと願える人であり続けたい




