サブカルアキバパパ

アキバ、サブカル、子育てについて語っていきます。


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韓国のDJお触り問題について

もうすでに鎮火しつつある話ではありますが、自分なりに何となく感想をと思って書きます。

 

何というか、これ、最初にこんなことされたーってTwitter(面倒なのでXじゃなくてTwitterって書きます)上げてた時に、ちょっと違和感があったんですよ。

 

なんというか、いわゆる被害者を名乗りつつ攻撃している感みたいなのが感じられたというのか、その時は攻撃とまではっきりとは認識していなかったんですが、なんか、なんでこんな言い方するんだろう?みたいな。

 

触られた問題については触る方も触られた方もどちらにも問題があると思っていて、誰かが紛争地帯に旅行に行ったら人が巻き込まれたら、戦争が悪い!紛争が悪い!ってのは当たり前として、紛争地帯に知っていて行くのだから、巻き込まれても仕方が無い的な事を書いてたと思うんですよ。

 

なので、紛争地帯に行くならば、それに巻き込まれない用心も必要であるように、お触りが駄目であると同時に、好きな格好でお洒落しても全然問題ないけれども、セクシーな格好で興奮した男性の前に近づく場合は触られる可能性を考慮して用心が必要であると。

 

なので、触る方は勿論駄目だし、触られた方も用心が足りなかったという意見に僕は賛成的なんです。

 

また、触ることが犯罪である問題と自由な格好と表現と用心問題は別であるという意見にも賛成で、自由な格好と表現に関しては表現は自由だし格好も自由だけれども、その自由が守られるべきかも知れないが、守られなかった際に自身の無用心を棚に上げて嘆くのはちょっと大げさ過ぎるなと。

 

まあ、逆にいうと、それだけ日本の安全とか日本人の道徳観などに安心していて、信頼していてくれていたのかも知れませんが、それを差し置いてもアップの仕方がとてもシステム的というか、ビジネス的に見えたんですよね。

 

勝手な感想ですけどね。

 

要は、本当にその事で傷ついて、嫌な想いをしていたのだとすると、そんな現場が何度も再生される画面をアップロードなんてしないんじゃないかなって。

 

動画は違う人でしたっけ?

 

動画じゃないにせよ、トラウマになる位に傷ついた出来事の場面の写真って、証拠になるとは言え、それを自分の投稿で上げるって所がとても不自然に思えたんですよね。

 

ポエミーに嫌なことがあった投稿の後に、引用リツイートに別の人が画像か動画でこれですかねってやってた方が、よっぽど自然に見えたなと。

 

トラウマツイートの後に立て続けに反論に対して反駁するべく別の画像とかテキストで返しているのとか、見てて、余計に何となくですけど、ビジネス的な感じに思っちゃった訳です。

 

そうしたら、以前反日ともとられそうな韓国語のツイート(竹島関連のお土産?にこんなの意味ねーよ!みたいな煽った的な)があったり、他のフェスでも似たような状況があったとか、今回の騒動がまるで狙ってやったんじゃ無いかと邪推出来る要素が出てきたんで、自分の中ではあー、この人は狙ってそういうのをやったんだなぁと思ってしまいました。

 

個人というよりは、組織なのかな?

 

会社なのか、事務所の意向なのか、或いは別の何かの意向なのか?

 

いずれにしても、個人の感情的なツイートってよりは、人為的で何かしらの恣意が働いたツイートだったなとは個人的には思います。

 

無論、触られて嫌な想いをしたことに関してはとても気の毒だと思いますし、本人もあえて、触られに行った訳では無いと思います。

 

あくまで、事後にそれを利用しようとした人達がいたんじゃないかって考えです。

(まあ、そう思いたいって所も強いかもですね)

 

これ、有名人とかが声高らかにそれぞれのポジショントークに利用していて、乗っかってましたよね。

 

触る方が悪い論者も触られる方も触られる方だ論者もどちらもアクセス稼いでいて、正義を振りかざすフリをした小銭稼ぎだったなぁって思いました。(直接的なお金にはなっていなくても間接的に今後の自身の活動に有利に働くという意味で小銭と呼びました)

 

触る方が悪いと言えば、女性差別反対派とか系の人達の支持を、触られる方も悪いと言えば、アンチテーゼ系の人達の支持を得られるので、いずれの立場を取っても、それまでの自身のポジションに沿った方を呟けば、良い宣伝になってますよね。

 

一部の政治家の方で、以前にコスプレは海外の人が見たらふしだらで不健全だからやめろと言いながら、今回はどんな格好でも表現の自由だみたいな事を言っていて、発言の掌返しというか、一貫性の無さというか、そういうのが露見した例もありますね。

 

政治家さんたちはね、頭は悪くないですけど、頭が良すぎるがゆえに、凡人達がどんな風に考えるか、どう伝えたら分かりやすいのかみたいな所が多分疎いんですよね。

 

だから、さっき上げた一見矛盾しているようなツイートにも、あの人達の論理上は矛盾なく理路整然としているんですよね、きっと。

 

だけどその理屈を理解するには一般の人達からすると政治家と比べてもう何ステップか言葉や認識が抜けている為、民衆には伝わらず、誤解を生んでいるのだと思います。

 

後、政治家について言うと、すごく品行方正を装っていますし、耳障りの良い言葉を一見発していますけど、その実、腹の中が垣間見えると、とても傲慢で民衆をバカにして見下している事が読み取れますよね。

 

なので、そういう傲慢さと他人を見下す性格の人は、政治家になれないような仕組みがあった方がいいんじゃ無いかなって思うんですよ。

 

ちょっとした筆記テストでもいいので、心理診断?の複雑なバージョンので、そういう傲慢さをあぶり出すテストみたいな。

 

いくら優秀だとしても、他者を見下している人の考える人は、人をまとめたり、説得したりするのって難しいんじゃ無いかなって思うのです。

 

政治って、優秀は部分も必要かも知れませんが、それ以上に人に好かれる能力や共感出来て共感される能力が大事だと思うんですよ。

 

なので、他者を見下す傲慢さは他人との共感や説得にはとてもマイナスなんですよね。

 

他人を説得して共感を相互に出来る関係性を築けないと今の仕組み上、法案を通すには利害一致以外無いので、そうなってくると、利権が生まれる温床になっている訳ですよね。

 

なので、利害での団結ではなく、思想での団結や結束がより生まれやすくなるようにも、他者を見下す傲慢さを削ぎ落とした政治家であった方がいいんじゃ無いかなって思いました。

 

そうそう、これはこないだのリハックで小西さんでしたっけ?がひろゆき氏に詰められて、切れ散らかしてた所で思ったんです。

 

ひろゆき氏は人のそういう所をあぶり出すのがとても上手いなって思いました。

 

自分が正しいって思っていて、他者にその思想を押し付ける人は、やはり傲慢だと思いますし、議論が出来ないと思います。

 

なぜならば、傲慢であるが故に、自分が正しいという想いが強いが故に、反対意見に対してフラットな立ち位置で耳を貸せないんですよ。

 

そもそも、ディベート論議をするって事自体が日本では得意な人が居ない中で、自分の考えている事と反対意見を言う人の言葉を素直に耳を傾けて考えられる人ってほとんど居ませんよね。

 

議論が成り立つためには、反対意見に耳を貸すのではなく、反対意見を一旦受け入れて、飲み込んだ上で、反証がある場合にのみ反論し、納得出来る部分がある場合は、それを踏まえて自分の意見をアップデートしていくって事が不可欠だと思うんですよね。

 

ああ、その意見は確かにこの部分はその通りだね!と、だったら、僕のここの部分は見直してこういう風にするのはどうだろう?

 

みたいな感じの会話が出来る人じゃないと議論ってただの自己保全と人格の否定し合いでしかないんですよね。

 

自分のアイデンティティを守るために自分の意見は死守する、曲げない。

 

相手の意見を否定するが故に相手の人格までも否定する。

 

みたいな議論という名の人格の攻撃合戦しかしてないなぁ思います。

 

Twitterのリプやレスバは特にそうですよね。

 

自分はこう考えるけどあなたはそうじゃないんですねって感じの余裕が無いなぁと感じます。

 

事実を淡々と提示するとかでもいいんですけど、結局その事実を元に作った考えというのはその人個人の意見な訳で、事実を元に考えられたからとて、その考えが真理である保証はどこにも無いんですよね。

 

その事に、言っている人も聞いてい人も中々辿り着いて無いんじゃ無いかなぁと。

 

論拠はあった方が納得しやすいだけで、論拠のある思想、考えイコール正しい普遍的な真理である的な、ちょっと偏った世相が強いような気もします。

 

まあ、誰かが言った意見はどんな人であれ、どんな論拠であれ、事実が何であれ、個人的な見解でしか無いんだって思います。

 

僕はそう思う、私はそう思うって所から逸脱出来ないんですよ。

 

だからこそ、僕はそう思う、あの人はこう思うって分けて考えることがとても重要で、同時に自分と違う考えをある程度理解を示したり受け入れてみる度量というか器量というか、いや、寧ろ余裕なのかな?ってあった方が、断然幸せになる確率は上がると僕は思ってます。

 

全然話は飛びますが、好きなことを沢山持っている人って、魅力的だと思うんですよ。

 

趣味でも、凝っている事でも、仕事でも、色んな意味でマルチな人。

 

勿論、専門的なスペシャリストにも素敵で魅力的な人はいると思いますが、スペシャリストで魅力的な人って、絶対その自分の生業としている専門以外にも、自分のハマっている好きなこととか続けていることってあると思うんです。

 

養老孟司さんが虫が好きみたいに、他にも好きなこと、凝っていること沢山あるみたいですけど、やっぱりそういった好きなもののカテゴリが沢山ある人って魅力的になるんだと思うんです。

 

それは、きっとさっきの違う意見を聞き入れる余裕じゃないですけど、色んなカテゴリを知っているからこそ、色々な立場、目線、ものの見方が出来るからなんじゃないかと思います。

 

傲慢ちきで人に耳を貸さない魅力的でない人の中にも、自分にも生業以外にハマっている、好きなことがあるって言う人いると思うんですが、多分、そういう人ってその好きな事、ハマっている事のカテゴリ数でいうと頑張っても片手で事足りる程度だと思います。

 

つまり、1つか2つは生業以外にハマっているものや詳しい分野はおありなのでしょうが、せいぜいがその程度で、5つ以上別ジャンルや異なるカテゴリを持っている人ってほとんど居ないんじゃ無いかなって。

 

要は、広がりが足りない、少ないのに、自分は知見が広いって勘違いしている人がとても多いように感じます。

 

また、複数の詳しい分野、続けている何かを持っていると言っても、それぞれの属性が近かったり、似ている分野である場合、やっぱりそういう人の魅力ってあんまりだったりする気がします。

 

まあ、僕も全然、人に関して詳しく話たりしていませんが、少なくとも、会話上に浮かび上がってくる情報から判断するに、そんな感じがしました。

 

そういう意味で沢山色んな事して遊んできた人って、やっぱり魅力的ですよね。

 

何より楽しそうだから。

 

そう、楽しそうな人って魅力的なんですよ。

 

んで、なんで楽しそうに見えるかって言うと、多分、本当に毎日が楽しいんですよ。

 

なぜかというと、魅力的な人にとって毎日は灰色の同じ日ではなく、カラフルな違う発見に満ちた日常だからです。

 

魅力的な人は多角的な目線と感性を持ち合わせているので、些細な変化に気が付きやすく、また同時に、隠れた共通点を発見し易いので、普段、普通に見過ごされている事が、発見の連続だったり、日常の中の違いに気がつけたり、後は同じ出来事が起こっても自分なりに楽しく処理出来てしまうんです。

 

自分なりに楽しく処理するってのは、出来事に対する考え方、捉え方を変える訳です。

 

とても嫌な事、悪いこと、不快な出来事があったとして、それを普通の人は、嫌な出来事だったなと終わりにしてしまいます。

 

所が、魅力的な人は、嫌なことが有った瞬間こそ確かに不快感は感じるものの、その後で、不快だった情報を別の見方、角度から見直して、捉え直して、不快ではないものに変える訳です。

 

例えば、人とぶつかって痛い思いをしたとしましょう。

 

普通は、あのおっさん嫌な人だったなとか思うかも知れません。

 

ですが、魅力的な人はきっとそうは思いません。

 

ぶつかった瞬間はイテ!って思いますが、きっとまずなんでぶつかっちゃったんだろう?って考えます。

 

そして、そこに自分の非があれば、今度はそうならないように自分が気をつけようと考え、また同時に、ぶつかったのが車じゃなくて人で良かったと思えば、不運を避ける事に気が付けたラッキーな出来事として記憶出来ます。

 

まあ、ちょっと、んな訳あるかい!って感じかもですが、でも魅力的な人は少なくとも考えてはいると思うんですよね。

 

普通の人が思考停止して処理を終えてしまう事に対しても常に、疑い続け、考え続け、毎日違う回答を出し続けながら朝改暮変しながらも、自分の中を変化させ続けているのだと思います。

 

例え、自分の中の意見がいったりきたりだとしても、常にそうやって自分をアップロードし続けているのだと思います。

 

DJさんの話から超脱線しましたが、僕自身そうやって考え続けて、失敗して間違ってを繰り返しつつアプデし続けて、魅力的な人みたくなりたいなぁと思います。

 

今日はそんな所です。

 

最後までご一読いただきまして、ありがとうございます!

 

再読して下さった方には、重ね重ね感謝致します!!