サブカルアキバパパ

アキバ、サブカル、子育てについて語っていきます。


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子供の成長を見守るということ

 

成功する子 失敗する子――何が「その後の人生」を決めるのか

成功する子 失敗する子――何が「その後の人生」を決めるのか

 

 

 

最近、子供達を見送る背中を見ていて、一昔前に保育園に一緒に行く時に走っていた背中から大分大きくなったなと感慨深く思いつつ、ふと思いました。

 

それは、自分が勤め人だった頃と今一人で子供達を育てる事になった頃とで、子供との距離が変わった事についてです。

 

例えばですが、一般的にご夫婦で子育てされている方で多いケースは旦那さんが働きに出て、奥さんは家で子育てをする、もしくは、奥さんも働きに出るけど、基本的には家事子育ては奥さんがするというパターンが多いと思います。

 

それで、自分が勤め人だった頃、子供と接するのは会社から帰って来て、子供達が起きてた時と、朝と休日でした。

 

しかも、朝はまだ子供達は寝ている事が多かったし夜も少し遅くなると子供達はもう寝ている事が多かったので、実際に起きている姿で接するのは休日が殆どでした。

 

なので、あの頃は子供の成長している姿というのは、まあ、言ってしまえば実際には毎週確認しているみたいな事が多かったように思います。

 

ですが、最近は毎日子供達が学校への行き帰りや遊びに行っている以外の、家にいる時間はほとんど子供達を見ています。

 

そうすると、必然的に子供の成長を毎日見ていきます。

 

実家が近いので、ちょくちょく週末に子供達を実家に連れて行ってお泊りさせたりするのですが、毎週行っていた月もあったり、割と頻繁に連れて行ってます。

 

そこで実家の父母に言われて気が付いたのですが、1週間毎に会っても成長していると言われたのです。

 

で、ふと、あの頃の自分も同じ様に週末に子供達を見て、1週間しか経ってないのに、なんか大分大きくなっているなって思ったりしたんですよね。

 

それで、ああ、この感覚ってきっとおじいちゃんたちも同じなんだなと気が付き、そう思うと、子供への接触頻度によって、成長の感じ方の具合というのが変わってくるなと思ったのです。

 

自分の場合で言うと、

 

今の自分 > 昔の自分 > 実家のおじいちゃんおばあちゃん

 

みたいな感じです。

 

これを一般化すると、

 

ママ > パパ > ジジババ

 

ってな感じになるかと思います。

 

で、更に拡張させると

 

ママ > パパ > ジジババ > 学校や学童や習い事などの先生 > 近所の人

 

みたいな感じになると思いますが、多分、この構図で見て、右側の人から子供のことについて突っ込んだことを言われると、ちょっとそれを受け入れるのって、うう!ってなりませんか?

 

自分の方が子供のことをよく知っているのに、何言ってるのよ!って気分に。

 

でも、よくよく冷静に考えてみて、その人の言っていることが的を得ていれば、逆によく思ってくれてたり、よく見ていてくれて、ありがたいなあとか思えるのですが、中々素直にそこに辿り着くには多少のゆらゆら道があるかも知れません。

 

で、これが家族とか夫婦の枠というのが加わると、更に加速してしまって、例えば、ジジババから子供の事をもっとこうしなさいとか、ああした方がいいじゃない?とか言われると、拒否反応じゃ無いですけど、なんか、自分の方がよく知っているし見ているのに、なんでそんな事を言えるのか?って思っちゃったりしません?

 

僕だけですかね?

 

こっちが思っているのをよそに、ジジババは自分勝手に意見を振りかざしてきます。

 

こっちはそれに振り回されないように、適当に聞くところは聞いて、負担になりそうなところは聞き流します。

 

ですが、夫婦となると、これ相当大変だろうなと思ったんです。

 

だって、聞き流そうにも、聞き流していたら、夫婦間だったらすぐに分かってしまいますよね。

 

それに距離も近い、そして何より、「パパ」の感覚的に、自分の子供の位置ってあの図の「ママ」の位置だと思っているんですよね。

 

パパ・ママ > ジジババ > その他の人

 

これが勤め人の頭の構造です。

 

実際に僕はそうでした。

 

だから、子供達と接している時間はママより少なくても、自分は父親である的なよく分からない自負が、自分の子供に対する何かについての論拠となっている場合がありました。

 

で、更に更に、今僕はこの一般で言う所の「ママ」ポジションになったんでよく分かるのですが、これ、今自分に「パパ」ポジションの人が出てきたら、その人が過去の自分みたく意見を言ってきたら、果たして、それと上手くやれる自信あるか?って言われたら、最強に謎ですよね。

 

でも、一つ思ったのは、学校や保育園や学童の先生方の話を聞く時の自分の姿勢です。

 

少なくとも、外にいる時の時間、僕は子供達と接していない訳で、また、友達と一緒にいる時の顔を僕は知らない訳です。

 

なので、そういったいわば、家ではない彼ら、社会に出た彼らの状況をよく知るのは、先生方なんですよね。

 

なので、例え耳が痛い話もあったとしても、そこはある種事実として、自分の中に一旦受け入れて、感情を踏まえて咀嚼してから落とし込むみたいな事をやっていたんだと思うんですね。

 

これを僕の場合はジジババに対しても転用し、僕が居ない時、ジジババと一緒にいる時の彼らの顔は僕は知らない訳です。

 

ですから、そういった事に関してはジジババの話は僕の知らない側面を知っているという状況では、まあ、知らない時間の総量は先生方の比ではないにせよ、持っているという事実を踏まえて、ジジババからの話についても、冷静に受け止めって行った方が、いいのだろうなと思いました。

 

そして、それを更に転用すれば、「ママ」ポジションでいつつ、仮に「パパ」ポジションの方が表れた場合、それを上手く使って、自分でも聞く姿勢を作っていけば、諍いを予め回避出来るだろうなと。

 

また、仮に逆に「ママ」ポジションになってくれる方が表われてくれて、自分が「パパ」ポジションになったとしても、過去の自分の事などを踏まえ、相手に対して尊重の気持ちを持って、話が出来るんじゃないかと思いました。

 

まあ、ようは、話す時も聞く時も、相手に対して尊重の気持ちを常に持っているというのがとても大事なんだろうなと、Mod作ろうが、サンプリング、パクリ、転用しようが、そこにリスペクトがあるか?というのが大事なのと似ている(いや、違うか?)なと思いました。

 

今日はそんなところです。

 

私たちは子どもに何ができるのか――非認知能力を育み、格差に挑む

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