あなたの番ですの過去の扉について
あなたの番ですの過去の扉編の話をします。
結論から言うと、黒島を殺人鬼にしたのは両親が黒島を殺し続けた結果なんだなぁと言うことです。
どういうことかと言うと、黒島は自分自身が人とは違うことに気が付き、それに恐れを抱くようになりますよね。
自分が殺人衝動を持っていて、それは人とは違うことで、常識や当たり前という枠組みから外れた自分が生きていてはいけない存在だと思い始めます。
で、なんでここで自己否定に入ってしまうかというと、これって両親が普通に生きて普通に過ごして欲しいと願い続けていたからなんですね。
つまり、ありのままの自分、ありのままの黒島沙和が両親に受け入れられていないんですよ。
ありのままだとダメ、「普通」じゃないとダメ、「当たり前」が出来ないとダメ。
これって、相当な自己否定なんですよ、実は。
で、きっと殺人衝動に駆られる前から、この両親の事でしょうから、黒島にずっと言い続けてきたのだと思います。
そう、そもそもが、殺人衝動が出てくるってコト自体が、彼女が狂っていたのではなく、彼女を育ててきた環境が狂っていたからだったんです。
それも、一見したら普通のように見えて、法律的には何も犯す事はしていないんです。
暴力も、ネグレクトも、精神的な暴言も、法律的、倫理的な観点で彼女の両親に逸脱した点は何もなく、また、過ちを犯している訳でも無いのです。
ところが、その法律上、倫理上間違ってはいない行動の中でも、人を苦しめ、狂わせる事があるというのを、秋元氏は言いたかったのではないかと僕は思うのです。
暴言や制限などで精神的に相手を縛る事などのモラハラでさえ、立件するのは非常に難しいと言われています。
実際に裁判になったとしても、証拠としての行動を積み上げても、それを行った当人の悪意の証明が出来なければ、裁判としては裁くことが難しいからです。
また、それ以前に、モラハラなどの被害を受けてしまう人の大半は自分自身が悪いんだって思ってしまう傾向にあるので、そもそもがモラハラを受けているという自覚すら無く、そうなると証拠すらも残っていないのが現状です。
変わって、こちらは善意でやっている事が、実は相手を非常に追い詰め、壊しているというケースです。
親は子が他人に迷惑をかけること無く、「普通」に生きて欲しいと願って子供にそれを言い聞かせます。
ところが、親の求めている「普通」というのは、非常に曖昧です。
っていうか、親が子供に求めている時点で本来はおかしいんですよね。
親は子供に対して出来ることは、その子供が自らの足で生活するまでに、最低限の衣食住を満たすこと、そして、知識や道徳を教えていくことだとは思うのですが、この道徳観念ってのがすごく厄介で、海外だと道徳って概念がなくて、これは宗教の範囲なんですよね。
なので、宗教的な教えでこうなっているからそれに従うみたいな感じが多いんです。
ところが、日本は道徳観念って、儒教の教えが根底に大衆にすごく染み付いていて、無宗教なんですけど、道徳観念だけはちゃんと大衆に残っているんですよね。
今考えたら、この儒教の教えをベースにした道徳観念を大衆に根付かせた人って誰なんだろうって思いますが、それはまた別の機会に調べてみようと思います。
で、道徳観念って宗教の様に教義が無いですから、まあ、書いてない訳ですよ。
文言としてね。
なので、地域や場所によって若干のマイナールールとかって多分あると思うんですね。
また、一時期言葉が流行った、「忖度(そんたく)」ってあるように、普通こうするよねみたいな、空気を読んで何かをするって文化がすごくあったんですね。
モズで公安内で誰も指示を出してないけど、空気を読んで実行部隊が動いたみたいな描写がありましたよね。
これって、考えてみると非常に危険な状態だと思うんですよね。ある意味で。
だって、黒幕がいるのに、その黒幕の都合よく動いた人物は、黒幕から指示を受けてないんですよ。
って事は、現在の司法上は黒幕を裁くことが出来ない訳です。
示唆すらしていないから、教唆にもならない。
つまり、道徳を教えるのってとっても大事でもあり、注意が必要だということなんです。
例えば、
「人を殺したらいけないよ」
こんな道徳観念があったとします。
で、子供は思う訳です、
「なんで殺したらいけないのだろう?」
そこで親に聞きます。
ここで、子供とちゃんと向き合って、人を殺すことについて、一緒に考えたり、話したりできたら、子供は恐らくは
「なるほど」
と納得するか、納得はしないまでも、まあ、そうなんだろうなぁと思い、疑問はある程度は晴れると思います。
ですが、ここで、
「いけないことはいけないの!」
とか
「普通はそんなことしないから」
とかって言われたら、多分、その質問をした子はずっとその事について考えると思います。
或いは答えが出てない状態で成長していくと思います。
つまりはその子の中では、恐ろしいことにまだ人を殺すことはいけないのかそうでないのか?について決まっていない状態なのです。
こんな風にして、答えているつもりでも、答えになっていない場合が多くあります。
「人を傷つけたらいけません」
こんな道徳観念があったとします。
ところが、お父さんとお母さんは平気でお互いを罵り合っていたり、或いはお互いに尊敬しないで、接しています。
子供は納得出来るでしょうか?
そんなの当たり前だ、こんなの別に普通だってあると思うのですが、その普通に行われている、日常の中の他人を壊す事って、法律上も倫理上も全く問題が無いため、平然と行われているのです。
黒島家でも、娘がどうも普通では無さそうだと分かった時、母親は精神病院に連れて行こうとし、父親は問題から目を反らしました。
この時点で、この家族が娘にそれぞれの思惑と幻想をずっと押し付けていたのだと分かります。
それに耐えきれなくなった彼女は救いを他人に求めますが、ここでも彼氏っぽい家庭教師の先生に切られてしまいますよね。
海で告白された時に、そもそもが知っていたのであれば、そして自首を勧めたかったなら、もっと冷静に彼女の気持ちを受け止めてあげて、話を聞いてあげてから、説得へと移るべきでしたよね。
それが、あんな風に取り乱して、叫んで、拒絶して、あれじゃあ、単に自分の事しか考えていない安っい男になっちゃいますよね。
まあ、そうなる気持ちも分からなくもないですが、それでも、やっぱりあそこはしっかりと彼女を受け止めるのが男じゃ無いのかなとか思うんですよ、どーやんがまさにそうしようとしたじゃ無いですか。
後、どーやんと黒島ちゃんがひまわり畑で幸せそうだったように、家庭教師の先生も黒島ちゃんにもっとリラックスして心を開けて上げられるような男っぷりがあったら、もしかしたら、あんなにも殺人衝動に悩むことも無かったのかなと。
そうそう、その前に、前回、脳の構造がサイコパスってるよって言ってたのも、なんか腑に落ちて無くて、そもそも自分がある程度好意ある人なら、その人に何を言ったら傷つくとか考えろよって、本当のことを言うことだけが全てじゃ無いと思うんですよ。
なんか、めっちゃ黒島擁護しているように見えますが、そうではなくて、全ての殺人や悪意が実はその人物だけの問題ではないと僕も言いたいのです。
悪意や犯罪行為をしてしまうには、それを犯してしまうだけの背景があると思うのです。
そして、それは、あからさまに分かるような背景の場合と、黒島家の様な、一見では分からないけれども、人の心を壊し続けていたケースもあると思うんです。
昔は刑罰に値する事をやってしまったら、一族ごと責任を取る形で打首になりましたよね。
これって、ある意味では正解だと思うんです。
つまり、犯罪者を出さない為により監視するじゃ無いですけど、キチンとお互いが見合っていたり、付き合いをしていたりする必要が出てきますよね。
結果、引きこもっていたり、付き合いや寄り合いに来ないと、あいつはあぶねーってなちゃうんでうけど、まあ、一族打首ではなくても、基本的には個人の罪だけ裁かれればいいのか?ってどこかいつも思っていました。
その両親は?ご近所さんは?上司部下は?友達は?
色々な所で、色々な付き合いがあったとして、或いは無かったとして、その犯罪を犯してしまった人に関わってきた全ての人が、罪を犯した人だけに責を押し付けるのではなく、ちょっと立ち止まって考えてみるべきだと思うのですよ。
そして、これは逆に言うと、殺人事件とか、凶悪事件とか、色々ありますが、それら全ては他山の石でも対岸の火事でもなく、直ぐ側にある危機なんじゃ無いかって思うですね。
つまり、うっかりしていると自分自身もその火種を作る一員になりかねないんだってそういう意識が無いと、殺人者は別人、自分とは関わりのない人みたいな感じで考えてしまうと、きっと、第2第3の犯罪者を生み出す可能性を孕んでしまうと思うんです。
なんか、うまく書けなくて、伝わったかどうかちょっと疑問なのですが、あな番の表テーマが愛だとすると、裏テーマが「当たり前」や「常識」が人を殺したって事になるんじゃ無いかって思いました。
今日はそんな感じです。