サンタクロースというシステム(仕組み)について
子供にサンタを信じさせることに関して僕はなんら抵抗感は無く、寧ろ率先してそれを行って来ていました。
けれど、ある日サンタに対して猛烈に批判的な意見を聞き、そんなにも自分は劣悪な事を子供にしていたのだろうか?と疑問を持ったことがあります。
サンタという功罪。
一体、何が罪で、何が功なのか?
今日はちょっとそんな事について簡単に考えつつ書いてみたいと思います。
恐らくはサンタの恩恵を受けられてなかったであろうその人からの指摘は初めてサンタをしている事を良いことであると無自覚に勝手に思い込んでいた自分にとってはものすごいカウンターパンチを喰らったような感覚になりました。
っと同時に、自らがされてこなかった事からの渇望がサンタが行われているのを知り、攻撃性になった部分も無きにしもあらずなのかなとも思いました。
そこで、改めてサンタクロースという嘘は、本当に子供にとって害悪なのか?それとも祝福に成り得るのか?みたいなことをその時からずっと考えてきました。
一つ一つ分けて考えていくと、サンタクロースをする事自体は、まず親のエゴであろうと思いました。
同時にサンタクロースをしない事も親のエゴであろうとも思います。
同じようにクリスマスにパーティーをするのも、しないのも、そのどちらも親のエゴだと僕は思います。
つまり、基本的には親が主導で動いているイベント、事柄に関しては全て親のエゴだと言えると思いました。
そういう意味でも幼稚園受験や小学校受験、いわゆる「お受験」ってのは完全に親のエゴであろうとも思います。
2月の勝者が盛り上がっている中学受験(する、しない両方とも)はどうなんでしょうかね?
微妙な感じもしますが、ぎりこれも親のエゴの割合が多くて、若干の子達が自分の意思でって所もあるのかなって感じます。
では、サンタに話を戻すと、親のエゴであるサンタクロースと言う嘘ですが、これによってもたらされる子供への有益性を考えてみます。
子供からしたら、クリスマスという事で無条件にある程度欲しい物が手に入ります。
うん、これはいいでしょ!
間違いなく、少なくともある程度の年齢を行って、純粋にサンタクロースを信じていたのに、ある時心無い誰かにサンタなんていなくてあれは親が買ってきているんだって言われるまでは。
そう、ショックを受けるでしょうね。
何せ僕がそうでした。
小学校高学年くらいまでサンタの存在を信じていて、友達からの言葉に、それまで頭の片隅にかすかに朧気ながらも感じていた事が明確に言葉にされてそれが自分に突き刺さった感じです。
それでも、当時の僕はどこか、サンタの存在を信じていたくて、親にその存在を問いつつもサンタからのプレゼントを渇望していました。
そうしたら、その年のプレゼントは、サンタクロースが拗ねたという内容の絵本でした。
完全に親からだと分かりました。
そして、その時の僕は、友達の言葉に刺された以上にショックでした。
なんて言って良いのか分からない感じの残念さで一杯で、泣きたい気持ちを抑えて、文句を言いたい言葉を飲み込み、がっかりした表情を押し殺して階段を降りていきました。
以来、うちにサンタは来なくなりました。
当時を振り返っても僕はあの時、今までと変わりなく、普通にプレゼント、もっというとおもちゃが欲しかったんですね。
それなのに、サンタがすねたという絵本が置かれていた。
いやいやいや、これあなた(親)が拗ねたって事をこんな風な形で間接的に伝えなくて良くないか????ってめっちゃ思いました。
その時からでしょうか?それとも、子供が産まれてからでしょうか?
僕はどこか自分の子供にはそんな悲しい思いを絶対にさせたくないって思って、サンタを全力でやろうと思ったんですよね。
物心小さい頃はまだ簡単にできました。
寝静まるのも早いし、何をあげても喜んでくれる。
小学校上がってからも、欲しい物をなんとなく聞いておいたり、ある程度の好みなど把握しつつ、サンタさんに何頼むの?って感じに聞きながらどうにかやってました。
ところがある時、上の子が今年から「おまかせ」にすると言ってきたのです。
「おまかせ」
プレゼントで最も最難関なのがこの「おまかせ」です。
なぜならば、欲しい物と上げたいものが一致しなければならないからです。
そして、欲しい物の情報がない場合、その中で何が欲しいのか?をよく観察して、何をプレゼントすると喜ぶかを考えなくてはならないからです。
うひゃー、これってサンタ対策じゃね?って思いました。
そう、上の子も段々と周りがサンタ=親と理解したり分かってきたりでそういう話を耳に入れてきたのでしょう。
そして、奇しくも僕がサンタは親なんじゃないか?と疑って、その対策として、サンタなら自分が親に欲しい物を言わなくても、きっと欲しいプレゼントをくれるに違いないって思ったのと同じサンタ対策をしたんです。
その年のプレゼントは正直外しました。
買っているその時は、これは良いんじゃないかな?って思いながら買ってたんですが、プレゼントを開けたあとのよくよく反応を見たら、まあ、興味ない。
うわー、やってもーたって思いながら、それでもどこか、そのプレゼントの良さに気がついてくれないだろうか?なんて思いつつ、去年のプレゼントは正直おまかせで失敗だったの?って聞いてみたら、うん、と頷いていて、あああ、やっちまったなぁと思いました。
そして、とうとう、子供達でサンタは親なんじゃないかって話をしてきたって言われました。
まあ、自分が過去に子供の時に遭遇した地点に自分の子供が立った訳ですね。
ここで僕はファッキン本貰って、ふざっけんなよーってなった過去から、自分の子供にはそうはさせまいとなんとか欲しい物をギリギリまで粘って聞き続けました。
最初に用意したプレゼントはそれぞれの子供達が恐らくはもらって嬉しいものだろうと思って用意しました。
ところがです。
当日になって、なんとその欲しいプレゼントではなく、もっと具体的に違うものを指定してサンタに欲しいと手紙を書いたんです。
いや、正直ぎゃーってなりました。
ですが、どうにか深夜受け取り出来る店舗があるお店で買えるものの範囲だったので、どうにかプレゼントを用意することができました。
また、事前に買っておいたものもあるので、まあ、かなり豪勢になってしまいましたが、きっと今回は喜んでくれるんじゃないでしょうか?
少なくとも外れではないと思います。
明日起きた時、どんな顔をしているか楽しみです。
さてさて、ここまでサンタされてきた話とサンタしてきた話をつらつらと書きましたが、サンタやってて一番楽しいのってやっぱ自分なんですよね。
子供が何を喜ぶかなぁ?って考えたり、それを見つけて買いに行く時、そして、それを用意して置いておく時。
全部、親のエゴですよね。
んで、そのエゴ、サンタという嘘は僕は、嘘でも良いんじゃないかって思うんです。
嘘でもなんでもいいから、サンタクロースは信じている人の所にプレゼントをよこすんだって。
だから、子供達にもそういって、サンタを信じなくてもいいけれど、きっとサンタは信じてくれる人の所にプレゼントを運んでくれるけど、サンタを信じなくなったらプレゼントくれなくなっちゃうんじゃないかな?と。
そういうと子供達は、友達にもそう言って、自分はプレゼントがまだ欲しいから信じ続けることにしたって言ったら、その友達も、自分もやっぱりプレゼント欲しいから信じてみようってなったそうです。
サンタを信じ込ませることが良いことなのか悪いことなのか?
僕には正直よく分かりません。
でも、サンタを信じて、クリスマスの朝にワクワクしながら起きるのって楽しくないですか?
同じようにサンタの役割をやっていて、子供達の顔を見るのって楽しいですよね。
だから、僕はサンタを信じるのって、映画やドラマのフィクションを信じるのと同じで、その時、その空間、その時間、その嘘を信じることで得られる楽しさを得るために、必要な事なんじゃないかなって思うようにしたんです。
映画もドラマも、フィクションって何も信じないってなると、すごくつまらないと思うんですよね。
ディズニーランドもUSJも、ある程度フィクションと分かりつつも、その場の嘘に同調して、自分がそこに馴染むからこそ楽しめるんだと思うんですよ。
だから、サンタクロースもその時期、その日だけでもいいから、信じていると、それだけですごく楽しい時間を作れるものなんだと思います。
人を傷つける真実よりも、人が嬉しくなる嘘の方が僕は好きです。
他人を傷つける真実を告げる人は、きっと心無いというか、その嘘を信じられない自分が辛いんだと思います。
だから、辛い人を増やすために、嘘を暴くんだと思います。
ゾンビと一緒なんじゃないかな。
まあ、そんな訳で、今年も僕は嘘を嘘と分かりつつも、信じたら楽しくなる嘘としてサンタクロースをやり、子供達もある意味でそれに乗る形で、半分は気がついているかもですが、サンタクロースという自作自演がいつまで続けられるか分かりませんが、子供共々、楽しんでいられる限り、続けていこうと思いました。
今日はそんな所です。
最後までご愛読いただきまして、ありがとうございます!