サブカルアキバパパ

アキバ、サブカル、子育てについて語っていきます。


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子供からの意外な質問「パパ、親友っている?」

こないだ唐突に子供から質問をされて、一瞬ちょっと戸惑いながらも、子供たちの知っている友達の名を挙げ、居るよと答えてしまった。

 

それを答えている時も、答え終わったあとも、間違いなくそれが自分の中で嘘だと分かる。

 

今自分自身にとって、親友と呼べる人は誰一人居ないと自分の中で確信しているからだ。

 

相手は運良く僕のことを親友だと思ってくれているかもしれない。

 

だが、恐らくであるが、人間バカではない。

 

こっちがそういう気持ちであれば、当然、向こうもその気持が伝わているだろう。

 

義理のようなモノはある程度存在しているとは思って、自分がその友達に対して何かしらの裏切り行為をしないであろう確信があると共に、その友達も僕に対してある程度の裏切らない確信はある。

 

だが、それも、絶対ではない。

 

なぜなら、僕が裏切られたと思う行為と、相手にとっての裏切りとが同一であるとは限らないからだ。

 

つまり、その逆もそうで、僕は友達を裏切るつもりではなく、無いかしらの自分の中の道理で動いていたとしても、相手からしたら、それは裏切り行為であると捉えられることもあろう。

 

同様に、彼らが取った彼らの道理で動いた行動に対して、僕が裏切られたと感じる事もあるだろうし、もしかしたら、本当に裏切られる可能性もゼロではないと思う。

 

言ってしまえば僕は疑り深いのだと思う。

 

しかし、そんな自分の本当の性分を子供たちには言いたくなかったのか、あるいは子供たちの前では、親友がいるいいお父さん像みたいな虚構を見せていたかったのか、それとも子供たちには自分みたいに孤独な人間になって欲しくなかったのか、分からないがともかく咄嗟に嘘をついた事は事実だった。

 

多分、よく理屈はわからないけど、自分の中でなにか、あの時の子供の「パパは親友いる?」の答えとして、最善であると判断したのだと思う。

 

その後に続く回答として、親友として残っている人は学校で出会う人に限らず、幼稚園に通う前から知っていた友達、学校ではない場所で出会った友達、大学時代のアルバイトで知り合った友達など、ある程度のバリエーションを入れて伝えた。

 

そうすることで、どこか彼らに学校以外の社会があること、学校以外の人間関係があることなどを暗に伝えたかったのかもしれない。

 

子供たちに伝えた友達はいずれも以前は自分の中で親友であると思っていた友達だ。

 

だが、何かの節であろうか、どこか冷めた自分が、彼らの行動や言動からいざとなったら、彼らが助けてくれと言ったら、僕には何が出来るのか?同時に、彼らに助けてくれと僕が言ったら、彼らは助けてくれるのか?

 

よく分からない自問自答を繰り返す内に自分の中の親友枠から彼らはいなくなり、代わりにわりとかなり親しい友人という枠になった。

 

僕は基本的に嘘をつかれたり、何か隠し事があったり、まあ、言ってしまえば試されるのが嫌いである。

 

なので、そういった素振りがあると、どうしても相手を疑ってしまって、なんとなく心を許せなくなってしまう節がある。

 

普通に考えれば、考え方も道理も違うわけなので、色んな接し方、関わり方があっていいのだろうけど、なぜか、自分と同じように自分の腹の中を割って差し出してくれない人には自分も腹の中を差し出せなくなってしまった。

 

前は違ったようにも思う。

 

相手が疑り深い人だろうが誰彼構わず、相手が望んでなくとも勝手に腹の中を差し出していた。

 

それは恋人関係でもそうだったかも知れない。

 

そして、その恋人関係でこじれてしまった事がより人を信じたく無くなったのかも分からない。

 

全力で信じ、差し出し、その結果がその相手は僕から割と大きなお金と数年という時間と人に対する信頼感というものを奪って色々な男へと渡り歩いて行ってしまった。

 

まあ、これは僕から見た感想なので、相手からしたら、僕はきっと最低で、嫌な奴で、利用価値としてしか見てなかったか、何かしらの色々な言い分があると思う。

 

シンジくんの自問自答で

 

「あなたは信じようとしたの?(綾波の声)」

 

「信じようとした!!(シンジの声)」

 

ってあるけど、ホントにそんな感じだ。

 

分かろうとした、信じようとした、だが結局は相手を裏切らせてしまった。いや、逆に僕が相手に対して裏切り続けていたのかも知れない。

 

You Tubeを観る時に流れるタップルの透明マントのCMを飛ばしながら、興味なーいって言っているが本音では心許せる自分の声を聞いてくれる親しい存在が欲しい。

 

同時に肉体的にも一緒になってくれる人が欲しいのが心の底の願いだ。

 

だが、子供たちの前では彼女なんていらなーいって嘘を言っている。

 

親友がいる?という問に対して、居るよと答えた嘘はある意味でこれと同じなのかも知れない。

 

子供たちがなんて答えて欲しいのか?

 

それを考えた上で、子供たちにとっての虚像をあるところでは演じて、あるところでは本音を見せ、そんな風に別にすべてが正直である必要は無いのだと気がついた。

 

正直、それは他人に対してではなく、自分自身に対して向ける言葉なのだ。

 

他人に対しては、その人にとって適切な言葉を選んで話すべきで、その時に付いた嘘に自分自身が気がついてさえいれば良いのだ。

 

どこかまだ、両親からの呪いである、真正直で善良で真摯な労働者でなければならないという価値観がまだまだ少しこびりついていたようである。

 

前にも書いたが子供に嘘を付くなという教えは親の怠慢である。

 

子供の嘘を見抜こうとしない親の怠惰の現れなのだ。

 

子供だろうが人間なのだから、嘘を付きたいシチュエーションもある。

 

親はそういった出来事、場面、子供の言動などを注意深く観察して、子供の嘘に付き合うのか、打ち砕くのかを毎回判断して決めていくべきなのだ。

 

それを回避したい親は育て方を用意にするために、安易に子供に嘘をついてはいけないよと教える。

 

だが、僕は子供に嘘も方便であると早いうちから言っている。

 

付いちゃいけないのは、他人を傷つける嘘だけで、人を守る嘘や、自分を守る嘘は付いてもいいと言っている。

 

そして、真正直であることは時として嘘を付くこと以上に人を傷つけてしまう可能性があること、他人に対して正直で有ることは、相手が自分を裏切らない前提条件の元成り立つ戦略だと言い聞かせている。

 

ゲーム理論におけるしっぺ返し戦略というやつだ。

 

なぜか?

 

これをしないと、嘘を覚えておかないと、子供が嘘を使う他の子に利用されたり、正直に言うが故に他人を意図せず傷つけていらぬ恨みを買ってしまう可能性があるからだ。

 

人間関係について、お金について、何かしら有益な事を両親から学んだことは無かった。

 

故に社会(学校生活を含む)の中で色々と痛い目を見ながら自分で気がついていった。

 

その時に自分がとても嫌なことが沢山あったから、僕は子供たちには僕と同じ目に合って欲しくないと思って、僕が教わらなかった事を子供たちには教えていこうと思ったのだろう。

 

そう思うからこそ、今の自分のような、人を信じない人ではなく、彼らには人を信じてより良い仲間を持った人になって欲しいと強く願う。

 

きっとそんな想いが、あの時の一瞬の戸惑いと嘘を作ったのだと思った。

 

「パパには親友って居る?」

 

もし、これが今度彼らが大きくなって、大人の心情が分かるようにまでなった時に再び聞かれたら、その時こそは彼らに語ろう。

 

僕の中の全てを。

 

それまでは、彼らが成長する事を強く願ってある程度の良い父親を演じていこうと思う。

 

それも一つのゲームかもしれない。

 

今日はそんなところだ。

 

最後までご愛読いただきありがとうございます。