いつから僕たちは誰かのために生きることがデフォルトになってしまったのだろう?
自分のために何かをするのが当たり前ではなくなってしまったのだろう?
家族のために仕事をする、家族のためにご飯を作る、家族のために一緒の時間を作る、すごくいい言葉の響きに聞こえるかも知れないが、僕には少し違和感がある。
滅私奉公、自分を殺して社会のため、お国のため、自分を犠牲にして自分以外の何かのために尽くすことが良しとする価値観。
僕はこれに違和感を感じる。
まず、家族サービスって言葉が嫌い
家族と一緒にいる時間が幸せでないなら家族なんて持たなければいいのに
そういう人は家族を持っている自分、家族を養っている自分という像を持ちたかっただけなのだ
家族との時間は自分の為に作るのだ
そもそもこの家族サービスという言葉の発祥は家族サービスも大概にしろよって家族を持っていない人の妬みから来ている(と僕は思っている)
仕事やお客様へに向けるべき時間(サービス)を家族にばっか使っているんじゃないって妬みだ
つまりそういう人は仕事以外に自分の使える時間が無い寂しい人間なのだ
それがいつしか自らを揶揄する言葉として根付いてしまった
そして、仕事の方が楽しくて家族を蔑ろにした人が家に居場所が無くなり、こういう言葉を自分で使うようになったのだと思う
大人になってから誰かに蔑ろにされるのは自分が誰かを蔑ろにして来た事が自分に返って来ているだけ
子供は違う、子供が誰かを蔑ろにするのは大人を真似ているだけだから、子供の時に誰かに蔑ろにされるのは偶発的に起こりうる事故みたいなものなのだ
それから家族のために、子供のためにって言葉が嫌い
そこに自分の為は無いの?って思ってしまう
家族のために一生懸命働いているから家庭に尽くす時間がない?
いやいや、そういう人は単に仕事が楽しくてやり甲斐があって、家族といるよりもその方が自分にとって楽しいからやっているだけでしょう
それを家族のためなんて言うのは嘘だよ。
仕事が楽しくて、家族と向き合う時間を作って無くて、それで仕事が出来なくなったら今度は家族に構って下さいなんて虫が良すぎるんだよね
今、きっと世の中の老人たちでそういう人で溢れているんじゃない?
高度成長期にやっきになって働いて、それこそ24時間戦えますかで滅私奉公してきたお父さん達が、仕事を定年退職して、家にろくに帰らなかったり奥さんや子供たちとろくに話してなかったのが、急に家にいついちゃってさ。
それまで会話ってものをしてこなかったから、基本的なコミュニケーションきっと出来てないんだよね
仕事上の付き合い、コミュニケーションは出来るけど、でもそれは仕事という共通言語があった上だったから成り立った話なんだよね
仕事以外の人間関係ってのは、そこに仕事の利害以外しか無いんだよね
仕事の利害でしか話が出来ない人は人間的に言うと欠陥なんだよね
なのに、自分は家族のために(嘘、本当は自分の為)これまで仕事で頑張って働いてきたのだから、今度は家族が自分の為に寄り添うべきだ!なんてすら思っているんだよきっと。
会話ができない老人たち
仕事という一路に頼らないと人と話すことすら出来ない哀れな男たち
そして、今もその未来の哀れな老人たちに成り得るであろう道を突き進んでいる若人もいるであろう
そう、自分のためと言わないで家族のため、子供のため、社会のため、会社のため、自分以外の何かの為に働いていると嘘を嘘だと思わないで嘘を付いている人たちだ
仕事が楽しいのは決して悪いことじゃない
言いたいのは自分は楽しいこと、好きなことをして来ていて、そのために家族との時間を犠牲にしていた事を棚に上げないで欲しいということだ
もう一度言うけど、今、自分が誰かに蔑ろにされるのは、それまでに自分が誰かを蔑ろにしてきたという事の返済なのだ
誰かを蔑ろにするというのは、心のなかで借金を作っているのと同じなのだ
いつかその報いを受ける
蔑ろにしていた事で傷つけていた人、苦労をかけさせてしまった人、そういう人たちに心の借金をしている状態なのだ
意図せずとも蔑ろにしてしまったとしても、それによって自分の心が一時的に(本当に一瞬ですらある一時的な時間)ではあるが楽になっていたのだ
他人に心の負債を押し付けて、一時的に自分が楽をしてきたものに利子が付いて後年その返済をするのが、誰かに蔑ろにされるということなのだ
心の負債の返済は突然やってくる
銀行の住宅ローンのように、少しずつ毎月返済するみたいに、時間も返す負債の大きさも決まっている訳でもなく、ある日突然どかんとやってきたりするのだ
それが退職して待ち受けていた事実なのだ
それからもう一つ違和感のある言葉
家族のために、子供のために毎日工夫して作っているご飯
そこに自分のために作るご飯って無いの?
子供が食べられない食材があるから、作れるメニューが限られる?
別に青椒肉絲にピーマン入って無くてもいいじゃん
麻婆豆腐に唐辛子入って無くてもいいじゃん
辛くないカレーでも美味しいカレーは作れるよ
辛くないと美味しく感じないカレーや麻婆豆腐は単に味を辛さでごまかして作っているだけなんだよ
本当に美味しいものは辛さがあったってなくったって美味しいんだよ
それとこういう料理はこうでなくっちゃいけないんだって先入観が強すぎて頭が硬いんだよ
だから、一つ食材が欠いただけでその料理がまずくなっちゃうんだよ、作れなくなっちゃうんだよ
料理なんで食材(タンパク質(肉や魚)と野菜とか)と塩と胡椒でもあれば、大体それだけで美味しいものは作れるよ
塩と胡椒と食材だけで美味しいものが作れない人は料理の経験が少ないか、そもそもが料理の事を知らなすぎなんだよ
自分が料理を知らないのを棚に上げて、子供のために、子供が食べられるようになんて工夫は、そもそもの料理の土台が出来てないのにその上に何かしようとしたら、そりゃ崩れるよ
基礎工事してないのに、高い建物作るようなもんだもん
そして、自分のためにが一切入ってなかったら美味しい料理なんて絶対に作れないよ
だってその作っている料理、自分が食べたくないんだもん
自分が食べたくない料理作って、一体誰が食べたいって思うの?
子供のために食材を限定する前に、子供に食べされる工夫をする前に、まずは自分が食べたいと思える食べ物を作れるようになろうよ
自分が美味しいって思える料理だったら、作っている人が美味しいって思いながら食べていたら、子供たちそれ見てたら多分、嫌いなものでも徐々に食べるようになるよ
だって目の前で美味しそうに食べてるんだもん
そんなデモンストレーションないよ
なんか食べたこと無いけど、美味しいイメージがないものなのに、目の前でお父さんお母さんが美味しそうに食べていたら、なんかそれって美味しいのかな?ってなってくるよ
でも、その逆を毎日やっているんだよ
自分が食べたいと思わない料理だから、自分が食べている時もきっと美味しいって思って食べてないんだよ
単なる栄養補給の一貫の動作になっていて、食事になってないんだよ。
毎日エサを用意してそれを出しているだけになっちゃっているんだよ
そんでもって自分もエサを食べているからきっと辛いんだよ
だってそれ美味しくないもんきっと
自分が美味しいって思って食べられるものじゃないんだもん
そしてそれは家族のため、子供のために作っている料理であって、自分のためには一切ない料理なんだよ
だから自分で美味しいって思えないんだよ
それを自分のために作る料理にしてみたら、絶対に変わるよ
自分のためだったら、自分が食べたい物を作るじゃない
自分が食べたいものだったら、食べる時美味しい顔になるじゃない
毎日美味しい顔見ていたら、子供たちもみんな美味しそうって思うようになるよ
好きなものしか食べないって言うなら、しばらくの間お菓子あげないでジュースもあげないでご飯食べなかったらお腹が空くって体験をさせればいいのよ
親が子供に根負けしちゃだめなんだよ
それって子供のためじゃなくて、自分が苦しいからしちゃっている事なんだよ
なんでもそうなんだけどさ、自分のためが無くなっちゃったらそれて駄目なんだよ
子供と根負けしないのも子供の将来のためじゃなくて、将来の自分の為なんだよ
後で自分が楽をするために、今少し苦労するんだよ
それを子供のためって思っちゃうから親が子供に根負けしちゃうのよ
だって子供は自分の為にやっているから
自分のためにやっている人は強いんだよ
例えそれが子供だとしても、大人と子供で戦っても自分の為にやっている人の方が勝っちゃうんだよ
だから、家族のため、子供のため、て思わないで自分のためにって考え始めたらきっと色々な事のやり方が変わってくると思うよ
仕事も家族のためって思ってないで自分のためって考え直したら、それまで自分がしてきた行いや時間の使い方、過ごし方がよく理解出来るはずだよ
そうなってくると、これからの時間の使い方、過ごし方、人との接し方が絶対に変わってくると思う
仕事でも家庭でも、学校や社会でも、とにかく何をするにも、自分ためが抜け落ちちゃったら駄目なんだよね
学校の掃除当番だって、サボっている人がいるのになんで真面目に自分ばっかやらされているんだって思っちゃう人は損しちゃうんだ
だって、掃除ってやると心がキレイになるんだよ
身の回りをちょっとキレイにするだけで、少し心がスッキリするでしょ?
だから、掃除はやらされることじゃなくて、権利なんだよ
だから、掃除も当番だから仕方がなくやっているんじゃなくて、自分が自分の心をキレイにするために、掃除する権利を使っているって考えるんだよ
それにね、掃除サボっている人って、掃除サボって楽しそうに傍からは見えるかも知れないけど、掃除サボっている人は、きっとその心に影を少しだけ落としちゃってるんだよ
自分でも自覚しないほどの些細な罪悪感
そいういう自覚しない心の黒い影は溜まる時は気が付かないけど、ある時になってものすごい悪さするようになっちゃうんだよね
だから、掃除当番を守って掃除するってのは、自分の心をキレイにするだけじゃなくて、自分の心に影を落とさないようにすることでもあるんだ
それは、復讐で人を殺さないことと同じとも言える
復讐の念を抱いて、報復する人を追い詰めたとしても、そこで相手にやり返して殺してしまったら、きっと殺して復讐を果たした人は一生幸せにはなれない
それは人殺しをしたからというよりも、人を殺したことで自分の心にものすごい影を落としてしまうからなんだ
その心に落ちた影が自分をずっと苦しめ続ける原因になってしまうし、恐らくは殺人で落とした影を払うのは人が他人を変える事以上に難しい事なんだ
だから、復讐の本当の終焉ってのは報復対象を許すことなんだと僕は考えている
本当の復讐は報復対象と向き合い、それを許す事で復讐という自分の影を払う事にあると僕は思っている
殺人まで行かなくても、何かしら悪いことをすると人は多かれ少なかれ罪悪感ってのを抱いてしまうんだ
そしてそれは自分で中々コントロール出来ることではないから、出来るならその罪悪感が起こるであろう行動をしないことが、最も心に影を落とさない方法の一つでもある
また、他人に優しくするとか、掃除をするとか、そういった自分の心をキレイにする行動を取り続ける事の方がとても大切だ
心に影を落とさないという防御よりも心を磨くという攻撃の方が、攻撃は最大の防御となるからだ
自分自身でものを考える時に自分に正直ではないというのも影を落とす一つだ
自分のためにしていることを誰かのためにってすり替えること
反対に自分のためにすべきことを誰かのためにと思ってやってしまうことも
先の掃除の例を上げるとクラスのために、学校のために、もっと引くと社会のためにって感じで掃除している人は、恐らくは掃除をサボっている人を見るとものすごくイライラしてきっと許せないくらいの憎悪を抱いてしまっているだろう
憎悪を抱くってことはまあ、めっちゃ心に影落としまくりな訳だ
でも、自分のために掃除している人は、掃除サボっている人見てもイライラしない
だって、その掃除って自分のためだから、サボっている人は心をキレイにする機会を放棄しているって考えられるんだよね
それにもっと気がついている人は先の罪悪感についても分かっているから、自分がその罪悪感を負わなくて済むという安心感すらある
子供のための料理の話に戻ると自分のためにご飯を作っていたら自分が食べたいものを作るようになるから、ご飯も自然と美味しくなる
ご飯が美味しくなると自分も子供たちも結果的に家族みんながハッピーになるんだけど、反対に家族のためにってやっていると自分が食べたい物を作らないからなんだかんだで誰も望まないものができちゃう
誰かのために作ったご飯は誰からも望まれなくなっちゃう
もっと遡って仕事の話に戻ると、自分のために仕事をしているって自覚できれば、それまで家族を蔑ろにしてきてしまった事に気がつくことが出来る
蔑ろにした事に気がつければ、蔑ろにしてきた人に対する態度って変わってくるよね
でも、家族のために仕事をしてきたんだって思い込んじゃっている人は家族を蔑ろにしたことに気がついてないから、蔑ろにしてきた人に横暴な態度とって更に蔑ろにしちゃうんだ
だから、自分の為が一切無い事って、結局は誰のためにもなってない無駄になっちゃうんだよね
そんでもって、自分のためにやっている人に絶対に勝てないんだ、自分以外の誰かのために何かしている人って
だから、100%全部自分の為って思わなくていいから、今までこれまで全く考えてなかった自分のためをほんの少しでいいから、入れてみて、自分のためにこれをするんだったら、どうやるか?どう行動するか?どう生きるか?って考えてみることなんだよ
誰かのためじゃない、自分自身のために
そうやって生きていくことが幸せになれる第一歩なんだと僕は思います
すげー、長文駄文、クソ長くなっちゃいましたが今日はそんな所です
いつもいつもご愛読ありがとうございますですです