ドレミの位置を音と一緒に耳と目で覚えるということ
最近、スティーヴ・ヴァイのVAIOLOGYを読んで、最初の練習である、指板上のドレミの音を素早く当てるという練習があるのですが、それを実際にやっていて気が付いたことがあります。
一つは、意外と分かっているつもりでも、実は何の音がどこにあるのかが瞬時に出てこない事が結構あるということ。
もう一つは、実は音とドレミの関係を覚えているのではなく、実はスケールやコードの形で指板上の音を覚えてしまっているのだという事が分かりました。
どういうことかと言うと、指が覚えてしまっている状態、つまりは指の手癖で弾いている状態だったのが分かったのです。
手癖で弾くというのは、自分が意図して何の音を出すか?というのは意識せず、いつも動かしている自分の指のパターンをリズムに合わせて弾いているだけの状態です。
なので、何となく、コード進行に対して合う時もありますが、合わない時はちょっと外れた感じになってしまいます。
また、狙って音を弾いていないので、せいぜいがルートに帰着するくらいしか求心力が無かったのです。
ですが、この指板上のドレミを視覚的にも聴覚的にも両方をリンクして覚える練習をやってみると、このスケールはこの音とこの音が使われていて、どれが指板上だとどことどこになっているから、みたいな事がよく頭で整理されてくるのです。
そして、それらの知識が身体に染み込んでくると、今度は、今まで形で覚えていたスケールに対して、今何の音を弾いているかを把握して弾けるので、狙った音を狙ったタイミングで出しやすくなります。
自分でも7thの響きやマイナー3rdの響き、9thや11thなどテンションの響きとかルート以外にも5thとかメジャー3rdなどに狙って帰着するのもしやすくなります。
他にも、コードに対してテンションになる音を多めに使うのか、コードドーンになる音を多めに使うのか?などのボイシングの選択、使う音のコントロールが自分で出来るようになって来ます。
これは今まで手癖で弾いていて、何となくソロをスケールの形でやっていた感覚からすると、新しい発見と共に、ものすごい自由さを獲得します。
不自由さの中の自由というのでしょうか。
実際には制限をかけてその中で選択していく形になってしまうのですが、その自分で音を選んでいるという感覚が、今までの不規則の中の自由だったものから、規則的な中での自由を獲得した感じになるのです。
よくジャズメン達が音とイメージして弾くとか、何を弾いているか自分でコントロールしている雰囲気な事を言ってましたが、ああ、こういうことなのかってやっと理解することが出来ました。
一度覚えた手癖、それをゆっくりとそれぞれの時の音が何の音か?を自分で口ずさむのは最初はとっても骨が折れます。
なぜならば、スケールの手癖には音名までインプットされていないからです。
ですが、ここに遠回りのようですが、手癖の中に音名を意図的にインプットしていくと、今度はその手癖を自分でコントロールしてより最適に手癖を適用することが出来るようになるので、音名を言いながら弾く練習はゆっくりからでもいいので、非常に有用だと思いました。
流石、スティーヴ・ヴァイだなって感服した次第です。
音の一つ一つに耳を傾ける。
一見、意味の無さそうな瞑想みたいな行為ですが、この瞑想こそが、自分のギターテクニックと能力をその先に拡張させる唯一の方法なのだと確信しました。
指板上の音、コード内の音、色んな音に耳を澄ませて感じること。
これこそがギターを上達させる遠回りなようで一番の近道なのだと思いました。
目より先に手が肥えることは無い、呪術廻戦であったこの話を前に音楽に当てはめて、耳より先に手が肥えることは無いと言いました。
まさに、それです。
耳が育ってないのに、手がそれ以上に肥えることはありえないのです。
指板上の手癖の形は視覚領域です。
一方、耳で感じる音の感覚は聴覚領域です。
聴覚は視覚に比べて何倍も領域を確保するのに時間がかかります。
なので、視覚を使って手癖を手に入れた時間以上に耳で音を感じる時間が必要だということになります。
これやってみると確かに最初は辛いですが、ある時を超えると、ふと勝手に分かってくれる時があります。
視覚領域で行っていた事と多分、聴覚領域がリンクし出してくれるのだと思います。
まあ、かなり地道な練習ですけど、ギター瞑想、コツコツと積み重ねて行こうと思います。
今日はそんなところです。