ママ友という形で出来上がった子供の人間関係の歪(いびつ)さ
今日はたまたまTwitterで見かけたヒョンな記事から日毎思っている事をピックアップしてみました。
子育て系の話をいていこうかと思います。
まあ、なんていうか、僕自身元々が世間の常識とかそういう空気感的な事が好きじゃないんですけど、まあ、そうは言いつつもだからといって、頑として受け入れない、通さないって程頑固でもない中途半端な感じなんですけど。
要は何が言いたいかと言うと、世間でまかり通っている事が正しいとも思わないが、かといって、それを積極的に正そうという程ではないということです。
んで、その世間でまかり通っている事の一つにママ友問題というのがあって、森友問題と似てますね、語呂が。
まあ、でも、実際似たような話じゃないでしょうか?あ、違う?
僕が疑っているのはママ友が居ないと子供の教育上不利であるかも知れないという良く分からない常識、不安、考え方についてです。
これって結構あるんじゃ無いかなぁと思っていて、孤立している人、ある種の集団に所属しない人で、それまでずっと何かしらの仲間内だったり集団に所属していた人は、結婚して、子供が生まれると途端に物凄い孤独に覆われると思います。
この孤独、一般的には旦那さんとは共有できない孤独なんですよね。
もし、旦那さんがフリーランスだったり、会社組織に属さない方だったら若干共有出来るんですが、大体が幼稚園(あるいは保育園)から小学校、中学校、高校、人によっては専門学校や大学、そして会社と最低でも14年以上はクラスという集団の中に属していたのが、子育てになると急にそういった集団から一旦距離が置かれる状況になります。
たまたま運がよく仲の良い友達で子供の出産が近かったという場合を除いて、子供を生んだ母親ってまず大概は社会から隔離されて夫の理解がない場合、物凄く孤独だと思います。
そんな中、当然孤独を紛らわす、或いは何かしらの不安を取り除く心の支えのような物が欲しくなると思うんですよね。
それがまさにママ友って言う恐ろしい世界への誘導灯なんですよねえ、多分。
僕思うに、ママ友って言葉がホント怖いなって思います。
だって、辛辣な言い方かも知れませんが、自分の子供の友達の親は友達じゃ無いですよ、ぶっちゃけ。
あくまで相手方の親御さんって訳ですよ。
そりゃ、たまたま知り合った子供の友達のお母さんと友達関係になれるケースもあるかも知れませんが、かなりそれって実は稀だと思うんですよ。
職場でいい友人関係が結べるのと同じくらい低確率だと僕は思います。
親戚の隣の子供のお姉さん位、遠い存在ですよ。
なのに、それを友達って言い切っちゃうママ友って言葉が僕にはそら恐ろしくてなりません。
そして、このママ友って言葉の恐ろしさは、友達じゃないのに友達並(或いは以上)の拘束を求められる所です。
その拘束の影響は自分自身だけならいざしらず、自分の子供にまで悪影響が及んでしまいます。
自ら招いた毒が子供にまで及んでしまうのがママ友って言葉の恐ろしい所です。
そして、宗教のようにそこに所属している本人たちは全く子供に及ぼす悪影響について無自覚で気が付いていないんですよね。
大人同士の格付けがそのまま子供の格付けに繋がってしまう危ない人間関係をどうして子供に与えてしまうのか?って思ってしまいます。
大人同士が同列でフラットだったらいいんですけど、大概ママ友ってグループを作って群れている人達は、その中に教室のスクールカーストと同じようにママ友カーストを作って支配層が被支配層をコントロールしようとしています。
支配層と被支配層には明確な区切りはなく、グラデーション的なレイヤーになっています。
なので、完全的に支配層の上層部にいる人以外は、被支配と支配の間で支配層のママ友を持ち上げ、被支配層のママ友を本人が居ない所で卑下しつつも、本人の前では仲の良いふりをします。
こんな風に親が振る舞っている人間関係の中で子供が果たして素直に育ちましょうか?と僕は思ってしまいます。
具体的なそういう姿は子供には見せない、子供の前ではそういう行動はしていないとしても、まあ、ぶっちゃけ子供って良く見ていて、特に親の事は物凄く良く観察していて、直接的な行動を見ていなくても、表情の変化や言動の端々から親間の人間関係、パワーバランスが分かってしまうんですよね。
その中で自分の親がどんな風にしているのかなんて、子供からしたら見てりゃ分かりますわな。
親だけですよ、きっと、子供には気づかれていないって過信しているのは。
まあ、逆に親が子供を勝手に推測して過剰に邪推して考えてしまう部分というのもあるんですけどね。
子供って本当は本当に素直なんだと僕は思います。
だからこそ、カーストに巻き込まれない環境に子供を置いてあげることがとっても重要だと思うんです。
学校に、クラスに、友達が居なくったって別に構わないと思うんです。
本人が帰れる場所、戻ってこれる世界があればそれでいいと思うんですね。
帰れる場所、戻ってこれる世界は一つは家であり、家族であり、お母さんなりお父さんですよね。
それから、それぞれの子供たちの好きなモノ、ゲームだったり、漫画だったり、本だったり、おもちゃだったり、何でも良くて、子供が好きな何かがあって、それがある場所が家の中にちゃんと存在していることってのがとっても大事だと思うんです。
子供た好きなものってのは親がどうこう言って与えたものもあると思いますが、子供が見つけて持っているもの、たまたまそこにあったものなど色々ですが、大事なのはその子供の世界を親が否定しないで居てあげるという事なんです。
子供は自分の持っている世界を親に否定されると、世間は否定する場所なんだって学習します。
そして、世界を持っていると否定されるのだと負の学習をして、自分の世界を捨ててしまいます。
自分の世界を捨てた子供は他人の価値観に任せて生きるようになります。
親からしたら、自分の思い通りにいいなりになるいい子として楽かも分かりませんが、自分の世界を捨ててしまった子供は、大人になった時に物凄く苦労します。
簡単に言うとそういった子供は将来一旦すごく不幸になります。
とはいえ、ママ友を作らないで、独りでいて子育ての正解が分からない、夫も子供の育て方に協力的ではないので正しい育て方かどうかという不安は当然あると思います。
そんな方に朗報なのが、実は子供が大人になって幸せになれるかどうか?について、実は親の教育による子供への影響ってのは実は物凄く少なくて、子供が成長する過程で影響されるのはその子供が育っていった環境なのだそうだ。
だから、ぶっちゃけどんなに正しい育て方をしようが、反対にどんなに間違った育て方をしていようが、子供が適切な環境に居さえすれば、別にどうってことはないのだということですね。
適切な環境とは、過度に偏った思想の環境以外の場所、言うならば、普通の学校、普通の社会の事で、日常的に生命の危機にさらされているだとか、一般的な観念から大きく外れた宗教的な教義だとか、そういった所ではない、本来であれば、日本のごく普通の社会です。
そう、本来であればなんです。
実はこの日本の普通の社会にも落とし穴があって、結局、やれ、いじめだ、なんだとあるのはある歪の延長上にこの普通が乗っかっているからであり、自分の子供が置かれている環境が果たして問題ない環境なのか?それとも何かしら問題がありそうなのか?を親は基本的にはウォッチし続けていく必要があるんです。
そして、問題がありそうな場合は即座に決断し、問題に対する何某かの行動を起こすか、或いは自分の子供をその環境から離す、学校だったら、転校させるだとか一時的に行かない事を否定しないなどの対応をすることですね。
「偏差値の高い私立にお金をかけて塾に通わせて入れたのだから問題ない」
ではないのです。
むしろ、そういう方が問題が出る場合も少なくないのですが、私立だろうが公立だろうが、どこの場であっても、既に我々は歪の延長上の社会にいる限りは、いま子供が所属している場所が問題ある小社会である可能性は拭えない訳ですよ。
そして、その場その時問題ないクラス、問題ない学校、問題ない仲間だったとして、それが未来永劫問題無いという保証はどこにもなく、時間によって、状況によって刻一刻と変化していく中で、問題があるか、ありあそうなのか?そういった監視を怠る理由は自分の子供が大切であれば全くといってないでしょう。
学校やクラスの情報などもママ友経由で入ってくる情報もあれば参考程度になるかも知れないですが、往々にしてバイアスがかかった情報であることを頭に入れて冷静に判断材料に入れるか入れないかを判断する必要があり、逆に先生や自分の子供から得られた情報や自分が実際に見た事を主軸に判断するのが一番いいやり方だと僕は思います。
そういった意味でも自らの子供を幸せを願って育てていくという観点からしてママ友を積極的に作りに行くという行為がどれだけ子供を不幸にするのか、そういった考え方、常識的考え、不安などがどれだけ支配層となりうる人をより盤石にしているか分かると思います。
仮に自分がママ友達の中の支配層トップに成り得る人だとしても、仮にトップに君臨していたとしても、子供の幸せを願うのであれば、直ぐにでもその集団から離れるべきなんですよね。
でも逆に、他者を蹂躙し、自らの糧とする生き方を子供に植え付けたいのであればそのまま続ければいい訳ですね。
まあ、そんなこんなで、ママ友否定派な意見をつらつらと書いてみました。
参考文献として橘玲氏の「言ってはいけない 残酷過ぎる真実」という本を上げておきます。
最後までご愛読いただきまして、ありがとうございました。
今日はそんな所でございます。