「隠す」と「言えない」は違うという話
一昔前に郷ひろみの「言えないよ」ってバラード三部作って言われた歌がありましたけど、ふとなぜか今日、「言えない」ことと、「隠す」ことは別なんだなって気がついたんです。
どういうことかというと、例えばですけど、隠すというとどちらかというとネガティブなイメージがあるんじゃ無いかなって思うんですね。
お前隠しただろ?
って言うと、なにか悪いることをしているような人とまるで咎めているように思います。
ですが、
お前言えないんだろ?
って言うと、ちょっとニュアンスが変わってくると思います。
少しマイルドというか、ちょっと叙情酌量の余地がある感じがしますよね。
ある出来事で、僕はとある人が意図的に隠し事をしていたのではないかと疑っていた事がありました。
ですが、ふとその人の立場に立ってみて、実際に同じことを言えるだろうか?と考えたのか、ちょっとふざけた感じでふとその人と自分を入れ替えて自分なりに演じてみたんですね。
頭の中で。
そしたら、ああ、これ、この場合、言えないや。
って気がついたんです。
そう、隠したんじゃなくて、多分、言えなかった。
だから、不審に思ってしまいましたけど実はこちら側も言えるような雰囲気とかアプローチをして無かったなと思いますし、本当に普通に考えたら、それは言えないよなって思ったんですよ。
そう考えたら、それまでは割と否定的に捉えていたんですが、もうちょっとその人に対する見方を変えてみようって思って、どちらかというと肯定的に思い直すようになったんです。
そう考えた時に、これってもしかしたら考え方捉え方のテクニックとして応用して使えるんじゃないかなって思ったんです。
そう、誰かに何かを隠されたって思った時、僕らは割とネガティブにとらえてしまって、ちょっとショックを受けたりとか、相手に対して懐疑的になってしまったり、或いは相手を責める気持ちを持ってしまったりすると思うんです。
でも、それって実はすごく損をしていて、他人を責めたり、疑ったり、ショックを受けるのって自分の時間と脳のリソースの無駄使いでしか無いんですよね。
だから、隠されたって思うんじゃなくて、ああ、この人は何かの理由できっと自分には言えないんだって思うようにするんですよ。
そうしたら、多分、自分が傷つく事も無いですし、相手のことをすでにこの時点で許している視点なので責めたり疑ったりもする必要が無くなるんですよ。
そうやって、自分で周りに敵を作らないようにやっていくことで、自分自身のメンタルも良好に保てますし、人間関係としても無駄な摩擦を避けることが出来ると思います。
「隠す」か「言えない」
たったこの一言の挿げ替えだけで、気分が変わったり、気持ちが変わってくるのがとても不思議だなぁと思い、それを伝えたくて今日は書いてみました。
今日はそんなところです。