犯罪者の罪と犯罪者を生み出した周りの社会に対する免罪
昔からニュースを見て思ってたんですけど、犯罪のニュースって色々と出てきますよね。
それで両親はその犯罪者に対してなんて悪いやつなんだ!って憤慨してたりしてるのを見てたんですけど、僕はそれを見ていてなんか不思議だったんです。
大人になってその疑問を両親にぶつけてみました。
なぜ、犯罪者ばかり責めるのか?
その犯罪者を作り出したその周りに罪は全く無いのか?
そして、それを見ている我々には全く罪はないのか?
犯罪のニュースは対岸の火事なのか?
まあ、そしたらムキになって烈火の如く、
お前は被害者の気持ちになったことはないのか?
お前は犯罪者の味方なのか?
犯罪者は犯罪を侵さない人とは違うのだ!
みたいな事を言われ、ああ、なんか悲しいなって思った記憶があります。
それ以来、両親にはそういう話題は話さぬようにしました。
ですが、つい最近政治家のなにかの汚職でしょうか、若い政治家がまあ政治資金を横領したとか何だとか、ともかく大金をせしめていて、それがバレて捕まったニュースがやってたんでよ。
たまたま実家に帰っていた時にそのニュースが流れてて、そのニュースに反応していた父に、ついつい噛み付いてしまったんですね。
どんな事件だったのかは忘れましたが、その時僕が単純に思ったのは、少なくともその捕まった人は数千万円のお金を集める事ができる人であったということ、そして、それが今の政治家の仕組みの中ではある意味で出来てしまうということ。
それをさせない法律も仕組みもなく、単にやったらダメよみたいなふわとした感覚だけがあって、それをしても許される人とそうではなく捕まる人がいるということ。
捕まる人は派閥からはじき出された人で、捕まらない人は為政者。
そして、その人は少なくともそれだけお金を集める能力があった事は事実で、自分にはその能力はないから、純粋にその部分で言えばすごいと思うと。
ですが、そこでは父から、とにかくやっちゃいけない事はやちゃいけない、政治家という立場なのだから、それはよりそうでなくてはならない!みたいなまあ、昔と変わらない一貫したダメなものはダメ主義でした。
それに対して、道徳的にそうだとしても、現実的にそれを取り締まったり、規制する仕組みがないのだから、そういう出来事が起こってしまうことは否めない。
また、自分がいざその立場になった時に、同じ過ちを犯さないとは言い切れないから、そこまでその人を責めなくても良いのではないだろうか?
と言いましたが、おなじみの
お前は犯罪者の味方なのか?
ってセリフで堂々巡りだったので、やっぱりこの手の話題はスルーするに限ると改めて分かりました。
まあ、僕の考え方がおかしいのかも知れませんが、ただ、思うのはニュースでも結局犯罪者が捕まって刑に服されたとして、その問題はクローズしてしまっているんですよね。
でもね、僕は思うのですよ。
さっきの、同じ立場に自分が立たされた時に、果たしてその人とは違う選択を自分は確実に出来るのだろうか?と。
自分に問うわけです。
例えば、色んな状況があると思いますが、少なくとも犯罪者になってしまう人の背景ってると思うのです。
誰も救ってくれなかった、誰も気が付いてくれなかった、誰もが敵だった。
色んな状況があったと思います。
勿論、そういう全ての人が犯罪者になるかというとそうではありません。
ですが、なので、犯罪が行われることは仕方ないとも思いませんし、犯罪者が悪くないとも思いません。
僕が言いたいのは、悪いのは果たして犯罪を犯した犯罪者だけなのでしょうか?ということなのです。
つまり、犯罪者には少なくとも周りに人が居ますよね?
隣に住んでいる人、両親、友達、職場、恋人、などなどです。
それ以外にもその人の住んでいる(或いは生活圏の)地域の人もです。
でね、今の犯罪の裁き方って、実行犯のみが裁かれて終わりですよね?
だけど昔の裁き方は、悪いことをした人がいたら、その一族にも責を問われてましたよね?
それもどうかというのはありますが、その一家、一族を罪に問うことで、一族で皆を監視する世の中でしたよね。
それによって、まあ、変な人、犯罪を犯さぬようにという意味では、ある意味で団結感はあったと思うんです。
別に、今もじゃあ犯罪者の一族も罪に問え!って言ってるんじゃなくて、罪に問われるから考えるとかじゃなくて、そういう人が出てきてしまった、そういう人が出来てしまった背景について、もっと僕らはよく考えたり、話し合ったりするべきなんじゃ無いかって言いたいのです。
僕はスタンフォード監獄実験で明らかになった、人は生まれながらにして犯罪を犯すわけではなく、環境が人を動かすのだっていう事実を支持しています。
つまり、罪を犯す人を無くしたい場合は、罪を犯す人が出来上がる背景を虱潰しに無くしていけばいいと思うのです。
生まれながらにしての悪人はいないという性善説はそのとおりだと思いますし、人は何もしなければ、努力しなければ、誰でも悪人になっていくという性悪説もそのとおりだと思います。
ようは、最初は人は無垢なのですよ。
そこで、極悪な人って居ないんですよ。
これが性善説です。
でも、徐々に生活していく中で、育っていく環境によって、人は意識しないでいるとドンドン悪人までは行かなくても、怠惰な考え、性格に染まっていってしまうのです。
意識的に自分を高めたり、悪いものを断つ努力をしなければ、人はドンドン悪の方向へと真っ逆さまへ転がり落ちてしまうのです。
これが性悪説です。
だから、荘子・孟子の性善説も荀子・韓非子の性悪説も、結局は相対していないんですよ。
僕の中ではどちらも同じことを言っていると思います。
なので、犯罪者だけが特別に悪の遺伝子を持っていて、それが悪いってのは、どこかおかしく感じてしまい、そういう犯罪を実行した人だけを生贄にして、そういう背景を作ってしまった周りの人達を免罪にしているように思えるのです。
逆に言うと、そういうニュースによって、あなた達は犯罪を犯さない特別な人ですよってメッセージが流されていて、それを受け取った人も、父と同じ様に自分は犯罪を犯さないと頑なに何の根拠もなく盲信している人を量産していると思うんです。
一人を生贄にして多数が幸せを共有している構図。
これって、犯罪に関わらず、会社とか、日本全体の縮図じゃないですか?
一人の犠牲で成り立つ社会。
その最小単位は家族です。
そう、一人の犠牲とはまさにお母さんです。
家庭内の女性を一人犠牲にして、男と子供がぬくぬくと生活を与えられているこの構造ってどこかおかしいと思いつつも、続いているのって、結局そういう構図を壊したくない層がいて、そういう構造を絶えず正しいと恣意的に垂れ流しているからなんですよね。
僕はそう思います。
犯罪者を糾弾する心理って、どこか一人の犠牲でその他が何かを免れる社会を象徴しているように思えるんです。
だから、そうじゃなくて、みんながみんなで協力しあって、助け合って、考えたり試行錯誤しながら生きていく、そんなコミュニティがあってもいいんじゃないかと思います。
そんな事をふと思いました。
今日はそんなところです。