こないだ、近所の子供達が遊んでいる所を、老年の方(BBAとは言いませんょ)が通りがけに、
「こんなところでボールで遊んで、どうのこうの」
って何か文句らしき事を言って通り過ぎたのを見かけたんですね。
んで、一瞬、その子はちょっと固まって、それでその老年の方が通り過ぎた後に、また再び遊びだしたんですけど、その光景を見ていて、ふと気が付いたんです。
まず、その近所の子供達が遊んでいた場所は、別にボールで遊んでいても危険な場所では無かったこと。
それから、子供達は、悪いことをしていないのに、なんで怒られたのだろう?と疑問を持ったんじゃないかということ。
基本的に、子供って大人から何か注意されると、一応いうことを聞くように育てられています。
小学校に入ると余計にその傾向は強くなります。
なので、大人が注意をすると、それに対して言うことを聞こうとするプログラムが自動で走るみたいな感じでしょうか。
ところが、大人が間違った注意とか、導き方をすると、このプログラムに支障がきたします。
基本的には、大人の言うことを聞くことは、自分にとって有用であるので、聞く耳を持つようにしていますが、人によっては、子供は強く言うと従ってくれるので、自分の都合で子供にモノを言う人が出てきます。
これをされると子供達はたまったもんじゃありません。
だって、大人って基本的に自分たちの為に注意してくれると思っていたからちゃんと聞く耳を持っていたのに、そうではなく、大人が大人の都合で子供に強く要求してくる場合があるなんて、そんなの聞く耳を持つだけ損だからです。
反発や不良が出てくる温床は、まさにこの大人の都合を押し付けられた子供達なのだと思います。
これは、なにも他人だけでもなく、親としても気をつけないといけないなぁと思いました。
さっきの老齢の方の事例だと、単に自分のところにボールが飛んで来るのが嫌だったから、子供に注意したというのが大方の見方です。
まあ、老齢なので、避ける体力もないのかも知れませんが、それでも、それ程危険な遊び方をしているようには全然見えなかったので、注意するくらいなら、自分が道を変えればいいのにって思ってしまいました。
多分、自分は身体が全然動かなくなっているのに、活き活きと身体を動かして走り回っている子供達が疎ましく思えたところも若干あったんじゃないかと思います。
そして、単に自分の通る道の近くでワチャワチャと遊んでいたのが目に入って、目障りに感じたのではないでしょうか。
まあ、そんな他人の例もありますが、自分も子供達に注意したり怒る時に、自分の都合だったり自分の機嫌で怒る場合もあるなあと反省したのです。
それをしてしまうと、子供達からは信頼を失ってしまいます。
最初は自分の為に注意したり怒ったりしてくれていると思っていたのが、段々と子供達も成長するに従って、大人の心のカラクリが見えてきて、
「ああ、これは機嫌が悪いから怒っているな」
とか
「あ、これ俺(私)悪くないけど、怒られている」
って分かってしまうでしょう。
そうなると、もう親に対する子の信頼感は結構ガタ落ちになってしまうでしょう。
なので、自分がそうならないように、子供達に対しては常にフェアであり続けないといけないのだなぁと、通りかかった老年の方のお陰で気が付くことが出来ました。
ありがとうBBA、、、いや老年の方。
なので、老害と一言で片付けてしまうのは簡単かもしれないけど、何かしらそういう人からも学べることは多いと思ったので、そういった方々から不快な思いをする事があっても、何かしら自分への糧を見つけてしまえば、有効活用が出来るのかなあなどと思いました。
仮にどんなに見ても糧が見つからなければ、老害的な人じゃない普通の人が、自分にとってそういった害を与えるような行為、言動をしない事に感謝が出来ると思いますので、その感謝のキッカケを作ってくれた、老害に感謝すればいいのかなと思いました。
でも、老齢の方の多くは、老害ではないと思います。
寧ろ、皆さんとっても優しかったり、色んな事を教えてくれたり、親切だったりすることが多いです。
ホント、一部の老害要素を持った人のせいで、年を取っているという同じカテゴリなだけで、老害と一緒に見られてしまっている部分って凄くあるんじゃないかと思います。
一部の心無い人のせいで、その他の人が同じ様な印象を沢山の人に与えてしまうってのいうのは、きっと老害とかだけではないと思います。
法律の規制ってきっとそんな風な一部の犯罪者や他人に迷惑をかける人達のせいで、そうでない大部分の人達が制限を受けてしまっているという状況になっているんじゃないかなって思います。
一部の心ない人がそうでない多くの人を縛る矛盾。
これってどうにかならないものでしょうかね?