意地悪がいじめに変わる時
子育てをしていて、特に学校に行きだすとちょっと気になるのが自分の子供がいじめられていないか、或いは加担していないかなんて事があると思います。
または、まさか自分の子供が?って思っていた矢先に学校の先生から連絡を受けてショックを受けてしまう親御さんもいるかも知れません。
学校の中で子供達にはクラスの中でのヒエラルキーというのが存在しています。
これは、先生ですら気が付かない場合もありますので、親からしたら全く知らなくて当然だと思います。
そして、そのクラス内のヒエラルキーの中で、特に発言力のある子が、道徳的に優れていて、心が満たされている場合、そのクラスにおいて、いじめは起こりにくいです。
反対に、発言力を持った子の道徳心が低いか、もしくは心が何か満たされていない場合は、ちょっとした事から始まって、じわじわと気が付かぬ間にいじめへと発展してしまう可能性を秘めています。
いじめの防止は非常に難しいと思います。
なぜならば、単にそれは子供達だけの問題ではないと思うからです。
先に言った、発言力のある道徳心が低いか心が満たされない子というのは、往々にして親の問題でもあるからです。
そして、その親の問題とは、発言力のある子の親に何か不手際があるとかそういった問題ではないからなのです。
発言力があって、道徳心が低い子がいたとします。
こういう場合は、発覚した時に、先生がキチンと指導して、その子の道徳心を育ててあげることで、解決へと向かうことは可能です。
(まあ、それでも問題発生が確認されないと、中々事前に未然に防ぐまでは至らないのですがそこは防止策を講じる必要はありますけどね。)
ところが、発言力のある、心の満たされてない子の場合、先生が指導したところで、その子自体も、実はそのことが悪いこと、よくはないことというのは、理解しているので、道徳心をあげようとしてもあまり意味がありません。
心の満たされない子は、自分でもそれをしてしまう理由が分からないのです。
そして、そういう子の親も、どうしてそうなってしまったかが分からないのです。
なぜならば、そういう子の親は、とっても親身になって真剣に子供の事を考えて育ててきたからです。
逆に、こういう子は道徳心が普通の子以上に高い場合もあります。
そう、親御さんはキチンと子供に何が正しいのかを教育して来たのです。
ところが、そういう子は心が満たされないのです。
なぜでしょう?
その答えを述べる前に、いじめのメカニズムについてちょっと説明してみたいと思います。
いじめとは、そもそも今、よっぽど心が荒んだ子でない限り、いきなり誰かを殴ったり蹴ったり暴力をしたり、一方的に精神的に追い詰めるようなことはしません。
最初は小さな事、些細な事から始まります。
心が満たされない子は、自分でもなぜか分かりませんが、モヤモヤしたものを抱えています。
いつもは我慢が出来ますが、子供ですので、何れ我慢の限界が来ます。
その時に手短にいる子で、自分に逆らえ無さそうな子、言い返さない子、やり返さない子を本能的に見抜いて、その子に近づき、ちょっとした意地悪をします。
その意地悪が受け入れられる事で、その子は少しその時は心のモヤモヤがスッキリしたような気になります。
その意地悪は実は受け入れられている訳ではなく、単に相手の子が我慢しちゃっているだけなんですけどね。
それで、根本解決はしないので、またモヤモヤが強くなると、無意識的にまた同じ様な事を繰り返します。
繰り返している返しているうちに、段々と同じ程度のことではモヤモヤが晴れなくなっていきます。
そして、行き過ぎた行動になり、一般的にはこの時点で問題となり、明るみに出ることが多いです。
最初に小さな認証を得て、次にその認証を続け、段々と要求を大きくしていく。
まさにフット・イン・ザ・ドア・テクニックとローボール・テクニックなのです。
(営業における心理テクニックの名称)
このメカニズムは政治家の汚職と一緒だと思います。
政治家の人で最初から悪人な人はそう多くはないでしょう。
最初はちょっとしたところから始まり、徐々に本人でもどうしようもなく戻れない立場になってしまい、大きな汚職へと手を汚してしまう流れです。
つまり、いじめを行ってしまう子というのは、何も、悪い子だとか、魂的に汚れているとかそういう子ではなく、普通の子なのです。
寧ろ、普通よりも道徳心が強く、何が正しいのかを厳しくしつけられてきた子なのです。
それが、初めの自分の衝動が成立してしまったが故に、次々と本人もどうしようもなく止められない状態になり、意地悪がいじめへと変貌していってしまうのです。
そう、始めから悪意を持っていじめる子なんて、殆どいません。
最初はちょっとした意地悪の場合が多いのです。
そして、なぜこれがドンドン増長してしまうかというと、1つは、言い返せない子、やり返さない子が、はっきりとノーを主張し、断らないからです。
つまり、意地悪が受け入れられなければ、これは続き様がないので、いじめへと発展することはありません。
ところが、これは次の理由でも書きますが、実は断りにくい明確な理由があるのです。
意地悪からいじめへと増長させない2つ目には、周りが止めないからという理由があります。
周りが止めないのには先生や加害者、被害者の親が気が付けないという事も含みます。
まず、なぜ周りの子達はこういった事を止めないのでしょうか?
止めたら自分がやられると思って止められないのでしょうか?
いいえ、違います。
いじめの初期段階における意地悪の場合、それが止めるべきことなのかどうかが、見ている子供達にとって、判断が付かないからなのです。
つまり、単に遊んでいる延長上のことなのか?本当に嫌がっているのか?果たして本当に不当なことなのか?
つまり、それを受けている本人でないと分からない位、微妙な意地悪を仕掛ける訳です。
なぜ、そうなるのか?
それは、いきなり誰かを殴ったり、蹴ったり、暴力を働いたり、悪口やけなす言葉、暴言を吐いたら、いくら誰でもそれは悪いことであると教わっているので、止めなよと止めに入られる可能性があります。
しかし、心のモヤモヤを解消したい本人は、誰かに止めに入られる事をしたら、意地悪が成立しなくなるので、モヤモヤが解消されません。
なので、一見周りから見てもそれが意地悪でないような意地悪を、断る可能性の低い子に仕掛けることで、自身のモヤモヤを解消させようと試みる訳です。
なので、周りの子は止めるも何も、そのことが行われていることにすら気が付きません。
また、先生については、先生のいないところで当然行われるので、知りようもなく、周りの子が意地悪なのか判断が付かないのと同じ様に被害者の子もそれが意地悪であるのかが明確には分からない為、先生に言いつけることもしません。
また、仕掛ける側としては、自分の行為の成功率を上げたいので、当然先生に言いに行きにくい人を狙います。
加害者の親は当然その事実を知り得ませんし、被害者の親も、それが意地悪なのかどうか、それを取り沙汰されるべきなのかどうか非常に大人ですら判断を迷うところがある場合があります。
仮に子供が訴えたとしても、大抵の場合は、それほど大きなモノとしては捉えずに、嫌なら自分で断りなさいとか、そんなの我慢しなさいって終わってしまうかも知れません。
次に、意地悪が徐々にエスカレートしていきます。
この頃になると、周りは、加害者と被害者がいつも一緒にいるので、中が良いのだと勘違いしだします。
そして、彼らの行為自体が遊びであると認識し、見慣れた光景になっていくのです。
つまり、止めるべき行為ではないと周りは認識している訳です。
それがもっと発展していくと、今度は暴力行為だったり暴言、あからさまな嫌がらせへとなっていきます。
この頃になると、流石に周りも何となくおかしいと気が付きますが、今までの経緯からの慣れ、つまり止めるべき行為でないと認識されているので、自分は関わりたくない、巻き込まれたくないという思いも相まみえ、止めに行くモチベーションが下がります。
ここまで来て、初めて、何となくいじめと認識され、周りが止めるに止められない的なよくテレビやドラマなどで見かける状態になる訳です。
いじめなのに、止めるべき行為ではないという認識が成立した瞬間です。
ここまでが、意地悪がいじめへと発展していくメカニズムになります。
さて、メカニズムの説明で、便宜上の言葉として加害者と被害者と言う言い方をしましたが、犯罪的な意味合いで使われるような言葉の意味ほど、加害者というのは別に悪い子という訳ではありません。
寧ろ、意地悪をし続けている子もまた被害者でもあるからです。
僕は子供達に心の事を教えている時に、心のコップのお水という話をします。
「人はみんな生まれた時は全員、心のコップのお水が綺麗で透明なんだよ」
「でもね、悪い言葉や、人が嫌がる事をしたり、見たりすると、そのコップに黒いインクみたいなのが入っちゃうんだよ」
「だけど、いい言葉をもらったり、自分が人にいいことをしてあげると、綺麗なお水がまた入るんだよ」
「でもね、一度ちょっとでも水が濁ると、沢山の綺麗なお水を入れ続けてあげないと、元の綺麗なお水には戻れないんだよ」
「また、コップのお水を取ろうとする人もいるんだよ。」
「反対にコップのお水を分けてあげる人もいるんだよ」
「綺麗なお水は愛なんだよ」
「だから、コップのお水はあげようとする人には分けてあげられるんだけど、勝手に頂戴って言われる人にはあげられないんだよ。」
「お水泥棒に捕まると、自分のお水は減っちゃうんだけど、お水泥棒のお水は増えないんだよ」
「だから、お水泥棒はずっとお水が足りなくてまたお水を取ろうとしているんだよ」
「お水を増やすには、誰かから愛を貰うことなんだよ。それが出来なかったら、自分で自分を一番に大事にしてあげることなんだよ。」
「そうするとコップのお水が溜まっていくんだよ。」
「そして、コップのお水が溢れてきた時に、初めてその人は誰かにお水を分けてあげることが出来るようになるんだよ。」
「お水がコップに溢れていないのに、誰かにあげようとすると、お水はどっちもこぼれちゃうんだよ。」
みたいな話です。
意地悪をした子には心のコップにお水があまり入っていません。
また、意地悪をするので、自分自身と意地悪をした子のそれぞれに黒いインクを垂らし続けます。
ここで周りの誰かが止めるか、意地悪をされた子が自分で断れれば、意地悪が成立しなくなり、黒いインクの注入は止まりますが、先に述べたような理由から、中々止まりません。
そう、意地悪をしている子は、単に自分が助かりたいだけなのです。
でもどうしたら助かるのかが分からないのです。
そうして、本能的な行動で足りないお水を補填しようとし、黒いインクを自分にも他人にも撒き散らし続けているのです。
では、意地悪をしている子の親が悪いのでしょうか?
いいえ、それも違います。
先にも言ったように、発言力があって、心が満たされない子の特徴として、何が正しいかの道徳心は、他の子に比べて高いケースがある言いました。
そう、親御さんはしっかりと教育をしているのです。
ではなぜ、そうなってしまうのか?
意地悪をする子になるのか?
こんなにも子供のことを考えているのに、心が満たされないのか?
それは、正しいことは沢山教わったし、知っているのですが、楽しいことが何かを正しいこと以上に教わっていないからなのです。
正しいことは何かで基準に子育てをしてしまうと、その子は正しいことを求める子に育ちます。
ところが、正しいことをし続けても、それをするのは当然なので、正しいことが出来た時に、中々褒めてもらえません。
反対に、間違ったことをすると怒られます。
褒めることが少なく育った子は、自己顕示欲が強く、他社に対して支配的な子になっていく傾向があります。
反対に、小さい頃から褒められて育ってきた子は、協調性が高く、自己評価の高いストレス耐性を持った子になりやすいです。
そう、いい子に育てようとするあまり、正しいことを教え続けたが故に、楽しいことや褒められる経験が少なく育ってしまうのです。
その結果、その子は怒られる事が多いので、自己肯定感は低くなります。
これがまさに満たされない心、モヤモヤの正体なのです。
なので、仮に、自分の子供が誰かに意地悪をしてしまったとかがあったら、決して怒るだけで済まさないで欲しいと思います。
その子の背後にある、満たされない心の信号、シグナルに気が付いてあげて、何か別のことでもいいですし、別に何もなくてもいいので、褒める言葉、安心する言葉を沢山あげて欲しいと思います。
よく、褒めて育てると、調子に乗りすぎてしまってダメになってしまうのではないかと、的外れな意見を言う専門家やコメンテーターもいますが、子供はお調子者位がちょうどいいのです。
調子に乗って、何かにぶつかれば、そこでその子は学習します。
褒めると調子に乗ると言う人は、実は自身が褒められた経験が少ないのです。
だから、褒められるであろう対象が羨ましいのです。
その為に、褒められる教育について否定的にコメントします。
つまり、自己肯定感が非常に低いので、褒められないで育ってきた自分を、これ以上否定されたくないのです。
もちろん、褒める教育の推進は、否定的な環境で育ってきた事の否定にはならないのですが、コップのお水が足りないので、他人にお水を分ける事が出来ない状態な訳です。
なので、悪いことはもちろん怒って、叱って、正しいことを教えて上げる必要は不可欠ですが、それ以上に褒めて、子供の自己肯定感を高めて行くことが非常に重要なのです。
そして、そのことがあまりにも知られすぎていない現状が、悪だと僕は思います。
正しいことが基準で物事を進めると、極大で言えば戦争になります。
でも、楽しい事を基準に物事を進めれば、戦争ではなく、コラボレーションになります。
では、なぜ正しいことを基準ですすめる風潮があるのか?
なぜ、そんな空気を広めているのか?
それは、そうするとお金が儲けられる一部の人達がいるからです。
人の恐怖を利用して利権を拡大していきたい人達がいるからです。
だから、テレビや広告で正しいことを基準に物事をすすめるべきである論をティーザー、サブリミナル、様々な手法を駆使して、我々に植え付けている訳です。
試しに、夫婦関係でも、親子関係でも、或いは仕事関係でもいいかも知れませんが、思い返してみてください。
今まで争っていた事や喧嘩していたこと、ぶつかっていたことに対して、正しいことを基準として考えてはいませんか?
もしまた同じ様な事でぶつかりそうになった時に、正しいことではなく、楽しいことを基準に考えたら、そんなに怒るような事でしょうか?
人はそれぞれに違います。
違うから正しいことも人によって変わって来る場合もあるのです。
正しいことが食い違うと、相手のことを間違っていると思ってしまいがちです。
あの人は、ああいう風に考える人なのか、そういう正しいを持っている人なのかとは中々思い難いでしょう。
ところが、楽しいを基準に考えると、自分はこれが楽しい。でも彼女はあれが楽しい。
そうか、彼女はああいう楽しいを持っている人なのか!
と普通に違いを受け入れられると思います。
違いを受け入れられる社会になれば、戦争はなくなっていきます。
違いを受け入れられる人になれば、人に対してイライラしなくなります。
そして、違いを受け入れられるようになるには、自己評価が高い必要があります。
心のお水が溢れている必要です。
違いを受け入れることは、相手にOKと言ってあげることなので、溢れたお水を分け与えることだからです。
いじめを無くすには、まず意地悪の段階に敏感になる必要があります。
そして、そもそもそういった事をする子供にならないように、正しいこと以上に褒めること、楽しいことを沢山子供達に与えてあげる必要があります。
その為には、子供の心のコップにお水をあげるには、自分自身の心のコップのお水を満たさなくてはなりません。
自分の自己評価を高めなくてはならないのです。
それには、自分で自分を褒めてあげることです。認めてあげることです。許してあげることなんです。
いいんです。
今のままで、そのままでいいんです。今生きていると言うだけで、貴方は素晴らしい人なのです。
そういう自覚を持てばいいのです。
「You not fall」
グットウィルハンティングのあのセリフです。
そう、グットなんです。
大人が自らの自己評価を自分でコントロール出来るようになり、心のお水を溢れさせられれば、子供達の世界も変わっていくと思います。
それでも、意地悪やいじめは無くならないかも知れませんが、意地悪の段階で気が付ける人が増えるかも知れません。
いじめへと発展する前に止められる確率が高まるかも知れません。
そして、一つ言いたいのは、親がしっかりと子供を愛していれば、子供は絶対に自殺したりなんかしません。
どんなに辛い思いをしてもです。
なぜならば、自分が死んだら、どれだけ自分の親が悲しむのか、それが痛い程よく分かるからです。
親の愛が伝わっていれば、その子は自分が今つらい状況だとしても、それを抜けるために、自分の親が世界で一番つらい目に合わせることは絶対にしないのです。
杜子春が仙人にならなかったように、自分の状況を改善するために自分の親を犠牲にすることは、選択肢として考えられないのです。
それでも、そうでない人も中にはいることでしょう。
でも、なるべくそうならないように、いい方向へとベクトルを向け続ける行動をすることが、いじめを、ひいてはその先の悲劇を未然に防ぐ最善の策なのではないかと思います。
なんか、久々に熱く語ってしまったら、超長くなっちゃいました。
ここまでの長文を読んで下さった方、お付き合い頂き、ありがとうございます。