サブカルアキバパパ

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藤原道長のこの世をばという句について

この世をばわが世と思ふぞ望月の欠けたることもなしと思えば

 

藤原道長が詠んだとされる句ですが、ご存知でしょうか?

 

藤原道長といえば、摂政政治を行って世の覇権の天下を取った人物です。

 

そんでもって、その時のパーリーで、ウエイーってなりながら俺サイコーって歌ったのが、先の句と言われています。

 

意味としては、この世は全部俺のものだぜ!満月って満ち足りていて、全く欠けてねーだろ?俺の人生も満月のように満ち足りていて、全く欠けてねーぜベイベーって感じに習いました。

 

ですが、色々と昔を題材にしている物語とか、時代風景とかを考えてみると、この解釈って非常に現代的なんじゃないかなって思ったんですよ。

 

例えば、月の例えって、昔から月は三日月から満ちてきて、半月を経て、満月に至り、やがて欠けてきて半月を経て、27の月(三日月の逆)になり、新月を迎える。

 

そして、またそれを繰り返すというのが、非常に当たり前のように心情を表すだけでなく、時代背景もそういった事になぞらえ、栄枯盛衰の世の常というものはその時代すごく意識というか、イメージというのでしょうか?なんか、そういう意識って強かったと思うんですよ。

 

だって、今みたいに平和がずっと続いているのってなくて、何年か経ったらどうせまた誰か戦争起こして荒れるんでしょ?みたいな、ある種の諦めじゃ無いですけど、備えあれば憂いない精神ってあったんじゃないかって思うんですね。

 

常に人と人が争い、奪い合い、そして、束の間の平定が訪れては、再び乱世を繰り返しって、そういう時代だった訳ですから。

 

そして、そういう時代の藤原道長も、当然、今みたいな平和ボケなイメージとか、パーリーパーリーな毎日だったとは言え、今ほどのパーリーピーポーでは無かったと思うんですよ。

 

乱世を生き抜いて、今の地位の上り詰めた人ですから。

 

なので、パーリーしながらも、いつ自分が討たれるか、或いはパーリーでもしていないと、その精神的な重圧に耐えられないくらい実は追い詰められていたんじゃ無いかって思うんですよね。

 

んでね、月って満ちては欠けて、これって海と一緒ですよね。寄せては返す波のように。

 

つまり、自分の今の状態を望月という風に月を使って言い表している時点で、その次に来る新月、つまり、陰りをある程度は、いや、確実に予見していたんだと思うんですね。

 

つまり、あの歌の真の意味は、自分は今が絶頂だろう。なぜならば、今ほどに満ち足りた状態は恐らく今後はこないからだ。

 

という事を言いたかったんじゃないかと思うんです。

 

そして、それは、暗に、これからの自らの衰退への不安や心情をメタファーとして暗喩していたんじゃないかなと。

 

そしてそれは、きっと当時の人達にはきっと伝わっていたと思うんです。

 

同じ時代背景、同じ価値観、世界観の中で生きていますから。

 

ですが、今の平和になれた僕らの時代から考察すると、この句って最初に説明したようなウエーイ俺様最高!みたいな傲慢な句に見えてしまったんだろうなと。

 

そして、ちょっと突っ込んだ事を言うと、恐らくですけど、歴史学者さんとか大学教授さんとかで、そんなにお金持ちな方って多分少ないと思うですよ。

 

むしろ細々と研究や学問をやっている方が多数派じゃないかなと。

 

そんな中で、毎日贅沢三昧のパーリーしてたぜって話を見て、満月俺!みたいな句を見たら、きっとそういうミスリーディングに至ってしまうんじゃないかなと思ったんですね。

 

まあ、ミスリーディングか的確な考察だったのかは、完全に僕の主観で今言ってしまいましたが。

 

ただ、一つの見方として、毎日贅沢三昧だったからと言って、全権力が自身の手中に会ったからと言って、じゃあ、本当に精神的にも豊かで満たされていたか?本当に傲慢だったのか?というのは、分からないと思うんですよ。

 

一昔前のちょっとしたブームでお金持ちになった人達とかも、お金一つでなんでも誰でも言うことを聞く人達に囲まれて、じゃあ、その時は傲慢に思ったかもですが、きっとその片隅には、どこか不安や恐れがあったに違いないと僕は思うんですよね。

 

人って、そんなに画一的な一面ばかりじゃ無いですから。

 

表面上は、とっても派手にしていたり、満足そうに見えていたとしても、その裏に隠された心情は、どこか朧げで寂しさを孕んでいるなんてこと、ざらにありますから。

 

だから、きっとこの藤原道長も、僕は傲慢というよりは、不安を皆の前で言い表すことで、共感をして欲しかったんじゃないかと思うんです。

 

昔の日本人って特に、海外の人のようにストレートな表現って避けてますよね。

 

直接、あなたは綺麗だ、大好きです、って言えば良いのに、天翔ける水環のなんちゃらかんちゃらがどーで、みたいなよく分からない、いや、当時の人の教養を持ってすれば、解読可能な、素晴らしい古典文学的な表現なのだと思いますが、要ははっきりと言わない美学ってあったと思うです。

 

なので、道長が、そうやって、あたかも自慢しているかのように見せかけて、実はその裏にある心情を皆に分かってよと歌っていた可能性も非常に強くあるんじゃないかなって、ワンちゃん実はそうだったんじゃないかなって僕は思っています。

 

清貧がいいことのような風潮はいらないと思います。

 

貧乏でも金持ちでもどちらの状態でも、清くいれる人はいれますし、濁った人もどっちにもいると思います。

 

金持ちの清い人も多分沢山いたと思いますし、貧乏で濁っている人はその更に何万倍もいるとい思います。

 

清貧って言葉には、利権者が貧乏でいながら、自分たちに迷惑をかけない存在でいるようにと、民衆に投げかけた洗脳の言葉なんじゃ無いかって僕は思うんですよね。

 

だって、金持ちが増えたら、利権者は自分の利権が脅かされますから。

 

僕は、お金を稼ぐこと、お金を持っていること、そして、お金を使う事はとってもいいことだと思います。

 

そして、お金を使うことを特別視するから、変な事になっちゃう訳で、別に持っている人は持っているだけ使って、持っていない人は持っていないなりに使えば言い訳で、そこに優劣を感じるから、変な劣等感とか、優越感とか発生するんじゃないかなって思うんですよね。

 

そんでもって、そういう貧乏人に植え付ける劣等感や金持ち側に埋め込む優越感を上手く利用しているのが、今の既得権益者達だと僕は思うわけです。

 

既得権益者達の恣意的な情報操作に惑わされないで、無為自然にいられたら、きっとお金持ちでも、そうでなくても、今ある今のままで、きっと幸せを享受することが出来ると思いますし、そうやって自然に幸せになっていくことが、やがて奴隷が王を穿つが如く、いずれ、既得権益者達が持っている富が、そこから流れ出て、沢山の人達へと恵が豊かに分配されて行くのではないかなと思いました。

 

まあ、なので、僕は、藤原道長という人物が、そんなに嫌いじゃないですよと、いや、むしろ非常に人間的で好感も持っていますという事を言いたかったのです。

 

例え、道長がどんなに極悪非道な行いをしていたとしてもきっとその時代、その状況に於いては、彼にとっては仕方のない選択だったのだと僕は思うからです。

 

そこに彼の傲慢性は僕には見えなく、むしろ傲慢だと思うのは、それを傲慢だったと考えた、後の歴史家達の心の僅かな心の緩みの中の傲慢さがそこに投影されたんじゃないかなと僕は思いました。

 

アシタカは「曇りなき眼で見定め、決める」と言ってましたが、まさにそういう、曇りなき眼(偏見やバイアス、恣意的な思考がない状態)で見定められていない事って結構あるんだなあって思い、気が付きました。